2022年12月1日木曜日

橋本吉兵衛(竹下)

  本因坊秀策が因島から江戸へ出て、本因坊家跡目となっていく間には多くの人々の支援がありました。

 特に最初に秀策の才能を見出し支援した人物として、尾道の豪商・橋本吉兵衛(竹下)の名が挙げられます。

 江戸時代、北前船が寄港し大阪、九州との交易地であった広島県の尾道は、広島藩最大の港町として発展してきました。

 橋本家(屋号「灰屋」)は尾道にて一族で廻船問屋や金融業・醸造業などを営む豪商ですが、もともと紀州橋本の出であり浅野家が紀州から広島に移住する際に随伴してきたと伝えられています。

 一族は本家の次郎右衛門家(灰屋ないし東灰屋)と分家の吉兵衛家(角灰屋)に分かれ、その後、本家から甚七家(西灰屋)が分かれています。

 享保期頃(18世紀前半)には西灰屋が一族の中心的存在でしたが,その後衰退していき、代わって角灰屋が質店など西灰屋の経営も引き継ぎ事業を拡大していきます。

 角灰屋はもともと廻船問屋に資金を貸し付ける商いをしていて、その担保は船荷である穀物などが中心でしたが、文化文政期以降(19世紀前半)七代橋本吉兵衛徳聰の頃から担保を土地や建物などに切り替え、不動産業や耕地を利用した塩田の運営によって尾道最大の豪商へと成長していきます。

 角灰屋は当主が代々吉兵衛の名を継いでいて、明治期の当主、九代吉兵衛徳清(海鶴)は、明治11年(1878)第六十六国立銀行(現広島銀行)設立に尽力し初代頭取に就任。政治家としても活躍しています。

 本因坊秀策を支援したという橋本竹下とは七代橋本吉兵衛徳聰の事で、豪商としてだけでなく、尾道文化人の中心的人物としても知られた人物です。竹下は号であり、名前ものちに荘右衛門と改めています。

 徳聰は寛政2年(1790)、先代橋本吉兵衛徳貞の妻の実家である三原川口氏に生まれ橋本家へ養子として迎えられます。

 文化5年(1808)に徳貞が没し吉兵衛を襲名して家督を相続。灰屋の当主であり、僅か19歳で尾道町年寄にも就任しています。

 竹下の事業運営は自らの利益追求というより公共性、社会性に配慮したものであったと言われています。

 天保飢饉により尾道近辺に発生した困窮者の救済策として,食料を無料で配布するのではなく、私財により公共事業を行い、困窮者を雇って仕事に従事させています。

 具体的には自らの檀那寺である慈観寺の本堂再建工事や、三原(糸崎)沖へ大規模な塩田を造成。自宅の新築工事もありました。

 竹下には、ただで物を与えては自立心が育たず、真の復興につながらないという信念があったのかもしれません。尾道では餓死者を一人も出すことは無かったと言われています。

 三原沖に造成された塩田は天保新開と称され橋本家の事業の柱のひとつとなっていきますが,もとはこのように救済支援策が始まりだったのです。

 文献によると竹下は「学を好み、詩文に秀で、風流洒落ある紳士、身分の高低問わず、誰にでも礼をもって接し、人々から慕われる君子」と評されています。

 文人としての一面を持つ竹下は、地元で活躍した女流画家、平田玉蘊らと交友し支援した事で知られますが、自身も福山藩お抱えの儒学者で漢詩人としても知られた菅茶山に学び、次いで京都で幕末の尊王攘夷運動へも影響を与えた思想家・漢詩人の頼山陽の門人となっています。

 竹下の遺した漢詩は、後に息子たちによって編まれた「竹下詩鈔」(1884年刊)などで紹介されています。

 囲碁も嗜んでいたようで、碁聖・本因坊秀策の碁才にいち早く目を留め、三原藩主へ推挙したのも竹下でした。

 天保5年(1834)秀策が六歳の時に竹下と対局する機会を得て、とても子供とは思えない実力に驚いた竹下は、父親に「この子は将来有望な子供であり、自分も力になりたいから大切に育てるように」とアドバイスします。

 一年後には竹下を上回る実力となり「因島に碁の神童が現れた」と対局の申し込みが殺到、それが三原城主の浅野忠敬の耳に入り、竹下は秀策を忠敬に引き合わせたのです。

 江戸での修行が始まり頭角を現していく秀策は、報告のため何度か帰郷していますが、その際には尾道の竹下を訪ね交流をはかっています。

 嘉永3年(1850)に跡目就任の報告のため秀策が帰郷しますが、大変喜んだ竹下は秀策の六段昇段と跡目相続を祝して記念対局を企画。先に紹介した慈観寺の本堂再建工事の竣工記念も兼ねて、慈観寺にて秀策と、秀策の兄弟子で元本因坊家塾頭の岸本左一郎との対局を開催しています。

 江戸時代後期から大正時代の初めにかけて、尾道では豪商が斜面地や海岸沿いの風光明媚な場所に「茶園(さえん)」と呼ばれる別荘を建てることが増え、文人たちの交流の場となります。

 現在、庭園が一般公開されている竹下の別荘「爽籟軒」にも多くの文人が集っています。

 竹原出身の頼山陽は実家へ帰る途中、必ず尾道の竹下を訪ね、滞在が長期に及ぶこともあったと記録されていますが、爽籟軒に滞在していたのでしょうか。

 秀策も尾道滞在時は爽籟軒を訪ねていたと思われ、竹下のことを「茶園の大人」と称していたそうです。

 竹下は50歳の頃に失明し、56歳で隠居したと記録されていますが、その後も詩文の創作・執筆は止まることはなかったと伝えられています。

 秀策との交友も生涯続きます。文久元年(1861)12月に秀策に囲碁の手ほどきをした最愛の母カメが亡くなりますが、秀策はそれを竹下からの手紙で知らされています。

 そして文久2年(1862)3月4日、橋本竹下は72歳の生涯を閉じ慈観寺の墓所に葬られます。

 大切な人々を相次いで亡くし悲しみに暮れる秀策ですが、自身も竹下の死から数ヶ月後の文久二年8月10日にコレラで34歳の生涯を閉じています。


2022年11月27日日曜日

木戸孝允(桂小五郎)

 

木戸孝允

 西郷隆盛、大久保利通と共に「維新三傑」と並び称される桂小五郎こと木戸孝允にも囲碁に関する逸話が多く残されています。

 木戸は天保4年(1833)現在の山口県萩市に藩医・和田昌景の長男として生まれますが、病弱であった事から和田家では姉に婿養子を迎えています。

 小五郎は七歳の時に自宅の道向かいに住んでいた長州藩の大組士・桂家の末期養子となり武士の身分となりますが、翌年に桂家の養母も亡くなったため生家の和田家で成長していきます。

 早くから秀才として注目されていた小五郎は、藩校明倫館で吉田松陰の教えを受け、その後江戸へ留学。

 江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、免許皆伝を得て塾頭となるなど剣の達人としても知られていました。

 なお、小五郎は松陰門下であるため松下村塾出身と思われがちですが塾生ではありません。

 江戸で多くの志士たちと交流を結んだ桂小五郎は、尊王攘夷派の中心人物として長州藩を率いていきます。

 当時、朝廷では長州藩に近い尊攘派の公家が権力を持っていましたが、文久3年(1863)「八月十八日の政変」により三条実美ら急進的な尊攘派公家や長州藩士が、公武合体派により京都から追放されるます。

 この時、小五郎は偽名を使い京都に潜伏し情報収集にあたり、その後、正式に京都留守居役に命じられ外交活動を行っています。

 元治元年(1864)6月「池田屋事件」により、多くの尊王攘夷派の志士が新選組に殺害れましたが、小五郎は、池田屋に早く着きすぎたため、皆が集まるまで近くの対馬藩邸へ行っていて難を逃れています。

 池田屋事件は、過激な尊王攘夷派が京に火を放ち天皇を長州へ連れ去る計画を立てているという情報をもとに新選組が会場に踏み込んだ事件です。

 穏健派の桂は、過激な行動を慎むよう説得するつもりだったと言われますが、多くの同志を失った攘夷派が、この後「禁門の変」を起こしていく流れを止めることは出来ませんでした。

 挙兵した長州藩が、御所を守る薩摩藩らに撃退されると、小五郎は但馬の出石(兵庫県豊岡市出石町)まで逃げ延び潜伏生活を送っています。

 なお、池田屋事件以降、幕府の厳しい探索を巧みな変装でかいくぐり逃走に成功した小五郎を人々は「逃げの小五郎」のあだ名で呼んでいます。

 朝敵となった長州藩に対し第一次長州征討が行われると、幕府恭順派により攘夷派の粛正が行われ戦いは終結します。

 しかし松陰門下の高杉晋作らのクーデターにより幕府恭順派が退けられると小五郎は長州藩の統率者として帰郷を果たします。

 なお、この時期に桂小五郎は藩主より木戸姓を賜っています。

 慶応2年(1866)坂本龍馬らの仲介により宿敵薩摩藩と極秘で薩長同盟を結んだ木戸は、薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し藩の軍備を増強し、第二次長州征討を勝利に導きます。

 大政奉還により薩長主導による明治新政府が樹立されると木戸は新政府でも版籍奉還・廃藩置県などで中心的役割を果たしていきますが、征韓論争により西郷らが下野した政府において、政策を巡り大久保と対立し、明治7年(1874)に台湾出兵決定に抗議し参議を辞職し帰郷しています。

 木戸の不在は政府にとって痛手で、伊藤博文・井上馨らは大阪の五代友厚と協力して明治8年(1875)に大久保、木戸が会する大阪会議を開催し、木戸の政界復帰が決定しています。

 その後、病気がちとなった木戸は、明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、西郷軍征討の対応のため明治天皇と共に京都へ赴きますが容態が悪化し京都の別邸にて病死します。

 駆け付けた大久保の手を握り締め「西郷もいいかげんにしないか」と語ったのが最後の言葉とも言われています。

 木戸は多くの志士の墓碑が建立されている京都のの霊山墓地(霊山護国神社隣り)へ葬られています。霊山墓地の墓はほとんどが招魂碑ですが、木戸孝允夫妻の墓は、坂本龍馬や中岡慎太郎と並び数少ない遺骨が埋葬されているお墓です。


木戸孝允の墓

 木戸孝允の囲碁の逸話をいくつか紹介します。
 禁門の変の後、木戸は但馬の出石出身の知り合いの手助けで、出石にて潜伏生活を送っています。
 出石では、知人の縁故関係の家を転々と移り住み潜伏先を変えていたそうですが、その中の一つ、昌念寺では出石藩士堀田反爾と知り合い、碁を打って日々を過ごしたと伝えられています。
 堀田は町人の振りをしている木戸がただ物ではない事を薄々感じ取っていたようですが、特に詮索することはなかったそうです。

 明治8年(1875)に政府を去った木戸を復帰させるため大阪会議が開催されますが、木戸は事前打合せのため大久保利通の滞在先である五代友厚邸を訪ねています。
 五代は大久保の囲碁仲間で、二人は滞在中に囲碁をしながら過ごしていましたが、木戸も大久保と碁を囲みながらはなしを詰めていったと言われています。
 しかし、同じく下野していた板垣退助も参加し行われた本会議は難航し、さらに懇親会にて酒癖の悪い黒田清隆(第二代内閣総理大臣)が泥酔して暴れ出したため話し合いは決裂寸前となってしまいます。
 会談成功の重要性を認識していた木戸は、このまま決裂させてはいけないと考え、囲碁会を開催しようやく関係修復、再開された会談により木戸らの政界復帰が決まっています。

 このように囲碁に関する話が多く残る木戸ですが、松陰門下の後輩である伊藤博文は次のように語っています。
 「公は和漢の学問に通じ、詩も作り、文章も作り、書などはなかなかうまかった。文学趣味には十分富んでおられた。碁はあまり好きな方ではなかった。」(伊藤公直話/昭和11年)
 伊藤博文も囲碁好きで知られていますので、自分と比べればという事なのか、付き合い程度で自分からは積極的に打たなかったのか不明ですが意外な感じがします。

木戸孝允の墓:霊山護国神社(京都市東山区清閑寺霊山町1)


2022年11月25日金曜日

西郷隆盛

 


 大久保利通、木戸孝允と共に維新の三傑に挙げられる西郷隆盛は、囲碁の愛好家としても知られ、昭和42年には明治100年を記念して日本棋院から名誉七段が贈られています。

 隆盛は、文政10年薩摩藩の下級武士西郷吉兵衛隆盛の長男として鹿児島城下で生まれ、幼名は小吉、名は隆永、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助などを名乗り、明治以後になり父と同じ隆盛を名乗ります。

 11歳の頃、友人の喧嘩の仲裁で右腕を切られ刀を握れなくなり、学問で身を立てようと勉学に励んだ西郷は、仲間のリーダーとして信頼を得て、両親の相次ぐ死で嘉永5年(1852)に家督を相続。

 安政元年(1854)に藩政に関する上書を提出したことで藩主島津斉彬に見いだされ庭方役に抜擢されます。

 将軍継嗣問題において一橋慶喜を擁立する一橋派の斉彬の片腕として江戸や京都で活躍し天下に広くその名を知られますが、安政5年(1858)に紀州藩主・徳川慶福(家茂)を推す紀州派の井伊直弼が大老に就任し、間もなく斉彬が急死したことで情勢が一変。

 いわゆる「安政の大獄」で一橋派および攘夷派への弾圧が始まり、西郷は攘夷派の僧月照と共に鹿児島へと逃れていきますが、藩の実権を握った久光(斉彬の弟で新藩主の父)は、幕府との対立を避けるために西郷らの国入りを拒否、絶望した二人は鹿児島湾で投身自殺をはかり西郷のみ命を取り留めます。有名な西郷の「敬天愛人」の思想は、この事件により天命を悟り生まれたと言われています。

 西郷は、生存を隠したい藩により菊池源吾と名を変えさせられ奄美大島へと流されていましたが、斉彬の遺志を継いで公武合体運動に着手した島津久光は、趣味の囲碁を通じて取り立てた西郷の盟友大久保利通の働きかけもあり、文久2年(1862)に人望厚い西郷を呼び戻します。

 西郷はこのとき大島三右衛門と名乗り活動していますが、久光の計画はずさんであると批判的で、京で尊攘派の藩士が決起する動きがあると、下関での待機命令を無視して独断で上洛し藩士らに思いと止まるよう説得。この行動が久光の怒りに触れ、徳之島ついで沖永良部島への遠島処分を受けます。

 しかし、久光が目指す雄藩連合による公武合体政策が行き詰まり 西郷は元治元年(1864)に再び召還され藩勢の回復にあたることとなります。

 当時、攘夷を唱えながら、綿や茶の密貿易を行っていた薩摩藩への世間の評判は最悪で、軍賦役(軍司令官)として京都へ赴任した西郷は密貿易の取り締まりを強化。さらに、政変により京都を追放された長州藩が起こした蛤御門の変で、薩軍を指揮して長州軍を撃退して藩の地位を向上させていきます。

 その後、側役に昇進した西郷は吉之助と名乗り、第一次長州征伐において征長軍の参謀として長州藩の無血降伏へ尽力していきます。

 しかし幕府と薩摩藩の関係が悪化していくと、坂本龍馬らの仲介もあり宿敵である長州の木戸孝允と薩長盟約を締結。盟友の大久保と共に藩内を倒幕の方向へとまとめ、慶応2年(1866)に始まった第二次長州征伐において薩摩藩は幕府の出兵命令を拒否、戦いは将軍徳川家茂、孝明天皇の相次ぐ死により幕府劣勢のまま終結します。

 勢いを増す薩長を中心とする討幕派に対し、新将軍徳川慶喜は起死回生を狙い大政奉還しますが、西郷らは王政復古のクーデターに持ち込み明治政府を樹立。あくまで武力による討幕にこだわり、度重なる挑発により慶応4年(1868)に戊辰戦争が開始されると、西郷は東征大総督府参謀として政府軍の指揮を執り江戸へ進軍を開始しています。しかし、江戸総攻撃については西郷と勝海舟の会談により直前で中止され、江戸城が無血開城されています。

 戦後、西郷は鹿児島へ帰り藩政改革を指導していましたが、新政府の基盤強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて明治4年(1871)に政府へ復帰すると、天皇と御所を警備する御親兵の設置や、廃藩置県に主導的役割を果たしていきます。

 政府は、諸外国との不平等条約改正のため、明治4年に岩倉具視、大久保ら政府首脳による岩倉使節団を欧米へ派遣しますが、西郷は太政大臣三条実美を首班とする留守政府で筆頭参議兼大蔵省御用掛として任にあたっています。

 使節団と留守政府の間には重大な改革は行わないという合意がありましたが、問題が山積する政府においてそれは難しく、留守政府は兵部省を廃止し陸軍省・海軍省を設置するなど様々な改革を断行。

 特に朝鮮釜山の大日本公館をめぐるトラブルでは、李氏朝鮮が明治政府を幕府に変わる日本の代表と認めず、国書の受け取りさえ拒絶するほど対立が深刻化。

 板垣退助らが居留民保護を理由に出兵を主張する中、西郷は自らが使節として朝鮮に渡り日朝国交正常化を実現したいと主張。一旦は西郷の要望どおり使節派遣が決定しますが、もし西郷に何かあれば、そのまま武力衝突へ発展することから、三条実美は最終決定を岩倉、大久保らが帰国するまで先延ばしすることとします。

 帰国した岩倉らは内政優先の立場から西郷派遣に反対し、調整にある三条が苦悩のあまり倒れたため、太政大臣代理となった岩倉により使節派遣の中止が決定します。

 西郷はこの処置に抗議し辞表を提出し、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議もこれに続き野に下ります。この出来事は後に「明治六年政変」と呼ばれています。

 通説では西郷は征韓論に敗れ野に下ったと言われていますが、このように西郷の真意は武力侵攻ではなく平和的解決であったとも言われています。

 鹿児島へ帰郷した西郷は、同調して鹿児島へ帰ってきた士族達の行く末を案じ、私学校を設立して指導にあたります。

 しかし当時、廃刀令や徴兵令の制定による士族の不満の高まりから、秋月の乱、萩の乱など各地で反乱が勃発し、鹿児島での私学校派士族の動きを警戒する政府は、密偵を放ち、あわせて県下の弾薬庫から火薬・弾薬を順次船で運びださせるなどの動きを見せます。

 そうした中、私学校に捕らえられた密偵が、西郷暗殺計画を自白したとして、明治10年(1877年)ついに反乱(西南戦争)が勃発します。

 当初、門弟の暴発を防ごうとしていた西郷ですが時すでに遅く、心ならずも擁せられる形となり西郷軍は進軍を開始。熊本城周辺での政府軍と壮絶な戦いの後、戦争は一旦膠着状態となりますが、田原をめぐる戦いで西郷軍に多大な犠牲者が出たのを機に次第に劣勢となり薩摩へと後退。そして9月24日、西郷は鹿児島城山における決戦にて、壮絶な戦死を遂げています。

 西郷を高く評価していた明治天皇は、その死の知らせを聞き「西郷を殺せとは言わなかった」と語っていたと伝えられ、明治22年(1889)には大日本帝国憲法発布に伴う大赦により赦され正三位が追贈されています。


碁を打つ西郷隆盛像(西郷洞窟)

 温泉好きでもあった西郷が利用したという温泉が鹿児島県内にいくつかありますが、その際に碁を打ってくつろいだという話もあり、高城温泉郷には西郷が使用したという碁盤と碁石も残されています。
 幕末から明治期にかけて活躍した本因坊門下の女流棋士、吉田悦子の谷中霊園にある墓碑を確認した際、碑文の中に西郷の名を見つけました。
 吉田の支援者であった大垣藩家老の戸田三彌は、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府側に属する藩を新政府へと恭順させた人物ですが、戦いの前年(慶応3年)に吉田を伴い大阪へ出向き大久保利通らと接触、その後、京都で岩倉具視、西郷隆盛、後藤象二郎らの碁の相手をさせたと記録されています。大久保や西郷らは討幕に向けて議論しながら、その合間に碁を囲みコミュニケーションを図っていた様子がうかがえます。
 西郷の囲碁に関する最も有名なはなしは、西南戦争の終盤、西郷は最期の5日間を終焉の地となる洞窟で碁を打ちながら過ごしたというはなしです。敗色濃厚な中、西郷は碁で気持ちを落ち着かせていたのでしょうか?
 西郷が亡くなった地である西郷洞窟(鹿児島市城山町)には、現在、碁を打つ西郷の像が建立されています。

 最後に幕府が崩壊し、家元が新政府から支援を打ち切られた際のはなしを紹介します。
昭和19年に刊行された「碁道史談叢」(高部道平 著)に、次のように掲載されています。(現代語訳)

 維新、すなわち明治と年が改まって、家元四家や、その四家の各門下七段以上の有禄者が無禄となった。
 それは三条実美、西郷隆盛、木戸孝允という維新の元勲が碁所に来て、手合やその他の儀式を見せてもらいたいと言って来たので、碁所では徳川幕府の従来通りを見せた。
 それに対して西郷公は「一先ず碁所を廃す。そのうち何んとか沙汰をする」と言った。これで無禄となった次第である。
 家元でさえ「囲碁稽古所」という小看板を出して生活を維持している。三段などの生活難は極度であった。
 明治八年となって、福井県福井で、第十五世本因坊秀悦六段、安井算英五段、中川亀三郎五段や他高段者が五名出席した大碁会があって、碁道は地方都市から大都会へと復興して行った。
 秀悦六段は十四世本因坊秀和八段の実子で、秀和先生明治四年に没して十五世を襲名した。
 西郷公が順調であったなれば「何とか沙汰をする」が早く実現したであろう。しかし西南戦争で惜くも公が没した。
 その様な事情で方円社創立は明治十三年となった。創立の後援者は伊藤博文公(当時伯爵)やその他の名士百三名であった。

 著者の高部道平は、方円社に学んだ後、本因坊秀栄門下となった人物で、裨聖会、棋正社などの結成に参加。
 明治生まれのため当時の様子を直接見聞きさた訳ではないようですが、師匠や先輩から話を聞く機会があったのでしょう。
 当初囲碁界は、西郷の支援に期待していたようですが、それがかなわず、支援者の協力により方円社が設立されるまでかなりの期間を要したようです。



2022年10月27日木曜日

アマチュア本因坊 村上文祥

 

村上文祥(因島市民会館のレリーフ)

村上文祥の墓(豪徳寺)

 アマチュア本因坊戦優勝5回、アマ十傑戦に6回優勝など日本アマ囲碁界を代表する棋士であった村上文祥は、昭和7年(1932)に碁聖・本因坊秀策の故郷、広島県の因島で生まれます。村上氏の先祖は因島を拠点として活躍した村上水軍の一族であったと言われています。

 小学生の頃に囲碁を覚えた村上は、中学生の時に戦災で岡山へ疎開してきた本因坊戦初代優勝者、関山利一九段(本因坊利仙)の研究会に通い、早稲田大学へ入学すると「西の怪物」と呼ばれ頭角を現していきます。

 大学卒業後、荏原製作所へ入社した村上は、昭和35年(1960)にアマチュア本因坊戦で優勝。翌年に行われた高川秀格本因坊との記念対局は、初の囲碁対局のテレビ放送となったそうです。

 その後も数々のアマ棋戦で優勝し、アマ強豪としての地位を固めた村上は、昭和54年(1979)に開催された「第1回世界アマチュア囲碁選手権戦」で日本代表として4位入賞。第3回では3位になるなど世界的に活躍していきます。

 また、故郷に対しても因島への「本因坊戦」「棋聖戦」の招致や、現在、全国から多数の参加者が集まり行われている「本因坊秀策囲碁まつり」に親交のある有名な棋士を伴って参加するなど囲碁普及に尽力しています。

 一方、本業においては平成6年(1994)に荏原製作所の副社長に就任しています。

 村上文祥は平成11年(1999)に亡くなっていますが、日本棋院では数々の活躍を讃え追悼八段を贈っています。また、因島市(現尾道市)は囲碁文化を通じ郷土の発展に貢献されたとして特別功労章を贈っています。

 故郷の因島にある因島市民会館のロビーには村上氏の功績を讃えるレリーフが設置されています。

 村上の墓は、桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼の墓所として知られる世田谷区の豪徳寺にあります。

 囲碁の棋譜がカラーで描かれた珍しい墓石で、棋譜は昭和44年に開催された「朝日アマプロ10傑戦」で坂田栄男10段と対局した時のものだそうです。また追悼八段の免状も墓石にそのまま刻まれています。

 

2022年10月21日金曜日

十四世跡目 本因坊秀策

 

本因坊秀策

 傑出した囲碁の名手に対する尊称「碁聖」と称された江戸時代の碁打ちは、四世本因坊道策、十二世本因坊丈和、そして当主となる前に亡くなりながら碁聖と讃えられているのが十四世本因坊跡目秀策の三人です。

 秀策は江戸時代末期の文政12年(1829)5月5日に、瀬戸内海に浮かぶ現在の広島県尾道市因島で商いを営む桑原輪三の次男として誕生、幼名は虎次郎と言いました。

 現在の広島県三原市西野で代々庄屋を務める安田家に生まれ桑原家の婿養子となった父、輪三は、教養に富み人格者で、尾道の財界人とも親交を深めていたそうで、母のカメは貞淑な妻として夫を支える一方、当時の女性としては珍しい囲碁の愛好家でもありました。

 幼い頃の虎次郎は、碁石を持たせると泣き止む子供で、いたずらをして父に押し入れに閉じ込められた際に、急に鳴き声が聞こえなくなったので覗いてみると、薄暗い中で夢中で碁石を並べていたという逸話も残されています。

 本格的に母から囲碁を教わったのは五歳の頃からで、その実力は見る見るうちに上達していったそうです。

 天保5年(1834)虎次郎が六歳の時に尾道きっての豪商、橋本吉兵衛と対局する機会を得て、とても子供とは思えない実力に驚いた吉兵衛は、輪三に「この子は将来有望な子供であり、自分も力になりたいから大切に育てるように」とアドバイスをします。橋本竹下と号し、頼山陽ら一流文化人を支援するなど、当時の尾道文化の中心人物であった橋本吉兵衛との出会いが、虎次郎の運命を大きく変えることとなるのです。

 当初、吉兵衛に九子置いて対局していた虎次郎は、一年後には吉兵衛を上回る実力となり「因島に碁の神童が現れた」と対局の申し込みが殺到、それがこの地を治める広島藩筆頭家老で三原城主の浅野忠敬の耳にも入り、囲碁好きの忠敬は虎次郎を橋本吉兵衛を通じ召し出します。虎次郎の実力に感心した忠敬は、その後も度々虎次郎を城に招き碁の相手をさせています。なお、この頃より桑原虎次郎は代々名主を務める父の実家の姓を名乗り安田栄斎と名を改めていて、城に近い安田家から登城していたのではないかとも言われています。

 浅野忠敬は栄斎の将来を考え、芸州随一の碁打ちと言われる自分の碁の師匠、竹原の宝泉寺の葆真和尚に栄斎を預けますが、漢学や画にも通じる葆真和尚から栄斎は囲碁以外にも、後に本因坊家跡目になるのに恥ずかしくない様々な教養を学んでいきます。

 宝泉寺での修行中の天保八年(1837)に、栄斎は芸州を訪れた本因坊門下五段の伊藤松次郎、後の伊藤松和と対局していますが、知人から頼まれ対局を承諾した松次郎は当初、幼い少年を見て不機嫌となり「初段の腕前と聞いていたが、どうせ少しぐらい強いのを鼻にかけて、あちこちの座敷に呼ばれて碁を打っていたのであろう」とあざ笑ったそうですが、実際に対局してみて栄斎の棋力に驚愕し、その実力を認めざるを得なかったと言います。後に秀策が本因坊家跡目に決まった際に、伊藤松和はこの時の非礼を正式に詫びたそうですが、秀策は「あの時の言葉があったからこそ、私は自分を励ますことができました。」と逆にお礼を述べたと伝えられています。やがて師匠の葆真和尚を凌ぐ碁打ちへと成長した栄斎は浅野忠敬の手配で本因坊家への入門が許されますが、一説には松次郎の推挙があったためとも言われています。

 こうして天保八年(1837)11月に安田栄斎は江戸へ旅立ち、十二世本因坊丈和の門人となります。囲碁界を統括する名人碁所であった丈和は、当時上野寛永寺へ至る上野車坂下にある道場に多くの門弟を抱えていましたが、内弟子となった栄斎は、そこで懸命に修行の日々を過ごしています。当時の修行は師匠に直接手ほどきを受けるのではなく、道場の掃除や師匠の身の周りの世話をしながら合間に棋譜を並べたり、兄弟弟子と手合わせをするというものでした。ある日、丈和は兄弟弟子と対局している栄斎の碁にふと目を止め、「これは百五十年来の碁豪である。我が本因坊家の門風は、これにより大いに挙がるであろう。」と大変喜んだと伝えられています。百五十年来とは本因坊道策以来という意味であり、栄斎の才能を高く評価していたのです。天保10年(1839)11月29日、栄斎は入門後僅か二年、11歳という若さで初段の免状を与えられますが、師匠丈和はその翌日に碁所を引退し先代本因坊元丈の子である丈策が家督を継承、土屋秀和がその跡目となっています。そして、栄斎に対しては漢学や書道を学ばせていますが、これは秀和が当主となった時に栄斎を跡目へと考えていたためとも言われています。

 異例の速さで初段となった栄斎は、師匠の勧めもあり、天保11年(1840)に一時帰郷していますが、栄斎の快挙を大変喜んだ浅野忠敬は飢饉で財政が苦しい中、栄斎に五人扶持の家禄を与えて広島藩の儒学者のもとで学問が学べるよう取りはからったそうです。翌年、江戸へ戻る途中に栄斎は大阪で井上門下の中川順節五段と対局していますが、関西屈指の碁打ちである順節に、当時十三歳の栄斎は二子置いてではありますが四戦全勝となり関西囲碁界は騒然。棋譜は囲碁好の仁孝天皇へも献上され、天皇は石を並べながら大変喜ばれたと伝えられています。一連の騒動は江戸へも伝わり、本因坊家では栄斎を二段に昇段させ、秀策の名を与えています。

 その後、秀策は実戦を重ねていき、天保14年(1843)15歳の頃に急激に棋力を向上させたと言われていて、いわゆる秀策流と呼ばれる布石もこの頃より用いるようになります。驚異的なスピードで昇段を重ね16歳で四段となり、二度目の帰郷を果たした秀策に対し浅野忠敬は家禄を増禄い、その恩に報いるため秀策は約一年間の滞在して忠敬ら三原城の人々や、宝泉寺の葆真和尚らと碁を打っています。


耳赤の一局

 弘化3年(1846)江戸に戻る途中、大阪に立ち寄った秀策は、ここで井上家最強の井上幻庵因碩と対局しています。名人碁所の座をめぐり本因坊家と激しい対立を繰り広げた幻庵因碩ですが、この時期には丈和の息子、井上秀徹を跡目に迎えていて、江戸を出て大阪に滞在していた際に、かつて中川順節と対局し話題となった秀策が大阪へ立ち寄ったため対局の場が設けられたようです。当初、準名人八段の幻庵に対し、四段の秀策が二子置いて対局は始められますが、幻庵は秀策の実力が四段どころでない事に気づき一旦中止され、翌日改めて秀策の先で打ち直すという異例の展開を辿り、弘化3年7月21日(1846.9.11)に改めて打たれた一局こそ、現在でも語り継がれる名局「耳赤の一局」なのです。

対局は中盤まで百戦錬磨の幻庵が有利な形勢で展開していき、それを見つめる人々は幻庵の勝利を確信していましたが、長考を重ねた末、秀策が127手目を打った時に、観戦していた一人の医師が「秀策の勝ち」とつぶやき、周りの者が理由を尋ねたところ、「碁の内容は良く分からないが、先ほどの一手が打たれた時に、井上先生の耳が赤くなった。あきらかに動揺し、自信を失った証拠である。」と述べたそうです。事実、秀策が繰り出した妙手により対局の流れが変わり、この一局は秀策の勝利となっています。その後、数日かけ計4局は秀策の三勝一局打掛となり、後に幻庵は秀策の事を「十八歳にして既に七段の域に達している。今後どれだけ強くなるか計り知ることが出来ない」と語っていたそうです。

 秀策の成長は天賦の才だけではなく努力を怠らず修行に励んでいった結果ですが、この時代は多くの実力者が登場する囲碁界の黄金期であり、秀策は丈和の長男で後に井上家当主となる葛野忠左衛門、本因坊家塾頭を務めた岸本左一郎ら兄弟子や、安井家の九世安井算知や太田雄蔵らに胸を借り成長していきます。中でも秀策の最大のライバルと言われた天保四傑の一人である太田雄蔵は、秀策より22歳年上で本因坊家跡目となる秀和ともライバルとして多くの対局を行い、嘉永元年(1848)には御城碁への参加が可能な七段になっていますが、雄蔵が御城碁に参加する事は無く、その理由として男前で女性にもてた雄蔵が剃髪を拒否したという俗説も残されています。秀策が本因坊家跡目となった後のある日、囲碁好きの旗本・赤井五郎作の屋敷に天保四傑らが集まり碁を打っていたところ秀策の話題となり、皆が今の秀策にかなう棋士はいないだろうという話になりますが、当時秀策と対戦成績が互角であった雄蔵だけが納得せず、赤井が発起人となり嘉永6年(1853)に秀策と雄蔵の三十番碁が開催されています。対局は雄蔵が17局までで6勝10敗1ジゴとなり、先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴへと追い込まれたため、第23局目で雄蔵が絶妙の打ち回しで白番ジゴとしたところで三十番碁は終了。その後、越後へ遊歴に出た雄蔵は安政3年(1856)に旅先にて客死しますが、知らせを聞いた秀策の悲しみは相当なものだったといいます。

 丈和や丈策は、井上幻庵因碩に勝利するという快挙を達成した秀策を五段へと昇段させると、いよいよ秀策を秀和の次の跡目にするべく動き出します。

しかし秀策自身が、自分はあくまでも三原浅野家から扶持をもらっている身であるからと固辞したため、寺社奉行を介して三原浅野家の本家である広島藩浅野家へ断りを入れたうえで浅野忠敬の了解を取り付け、ようやく秀策に跡目となる事を承諾させています。弘化4年(1847)秀策が19歳の年に、秀策が跡目となる事に尽力した本因坊丈策、次いで隠居の丈和が相次いで病のために亡くなり、秀和が第14世本因坊に就任、秀策も正式に秀和の跡目となり六段へ昇段すると共に、師匠丈和の長女、花との婚約も決定しています。嘉永2年(1849)に御城碁へ初参加した本因坊秀策は、安井算知と対局し先番の秀策が終始リードして十一目勝ちを収めますが、この日以降、秀策は御城碁において最後に参加する文久元年(1861)まで、前人未到の19連勝という大記録を打ち立てていくのです。

 嘉永3年(1850)には跡目就任の報告のため再び帰郷していますが、囲碁家元筆頭本因坊家の跡目ということで、その道中でも大歓迎され、各地で指導碁を行いながらの帰郷だったそうです。故郷では浅野忠敬が大歓迎し、秀策を見出した橋本吉兵衛は秀策の六段昇段と跡目相続を記念して記念対局を企画し、飢饉救済事業として吉兵衛が行った菩提寺・慈観寺の本堂再建工事の竣工祝いとして、秀策の兄弟子、岸本左一郎との対局が行われています。世界遺産・石見銀山で知られる現在の島根県大田市大森で暮らす左一郎は、元本因坊家塾頭として修行時代の秀策を鍛えた人物で、記念対局後も秀策が安芸、備後、石見、出雲などを巡り囲碁の普及に努める中、大森の左一郎邸を訪ねたり、各地へ左一郎が出向いて対局するなど旧交を温めていたそうです。御城碁で連勝を続け名声が全国へと広がっていった秀策は、各地に招かれ対局する機会も増えていき、嘉永4年(1851)には信濃国松代にて、本因坊門下初段ながら五段格の実力があり素人日本一と称された関山仙太夫との有名な二十番碁が行われています。

石谷広策へ贈った「囲碁十訣」

 安政四年(1857)ふと思い立ち秀策は四度目の帰郷をしていますが、これが秀策最後の帰郷となります。この時、秀策は実家で同じ芸州出身の弟弟子、石谷広策と対局し、その際、有名な「囲碁十訣」を広策に書き贈っています。「囲碁十訣」は唐の時代の囲碁の名手、王積薪が造ったとされる格言で、秀策は座右の銘としていました。

 幕末の動乱により、この時期は御城碁が行われない年もありましたが、秀策が33歳となった文久元年(1861)は囲碁好きの第十四代将軍徳川家茂の強い希望によって御城碁が開催され、秀策は既定の御城碁で林門入、お好み碁で林有美と対局し、御城碁十九連勝という快挙を達成しています。しかし、これが秀策が参加した最後の御城碁となります。

秀策の墓(本妙寺)

 御城碁が終わって間もなくの文久元年12月に最愛の母カメが亡くなり、人一倍親思いであった秀策は追善供養のため一切の生臭いものを断つ精進生活に入る中、開けて文久二年三月には秀策を見出し様々な支援を行ってきた橋本吉兵衛の訃報が届き、秀策は悲しみに暮れる日々を過ごします。折しも江戸ではコレラが大流行していて、本因坊家でも多くの感染者が出ている状態で、人格者であり人一倍優しかった秀策は、秀和が止めるのも聞かず懸命に患者の看病にあたりますが、ついに秀策自身が感染し、一週間ほど後の、文久二年8月10日に34歳の生涯を閉じます。皮肉なことに秀策の看病のおかげか、江戸で多くの犠牲者が出る中で、本因坊家で亡くなったのは秀策ただ一人だったと言われています。

 当主となる前に亡くなった秀策ですが、明治期になると弟弟子の石谷広策が、その遺徳を偲び顕彰活動に尽力し、三原市の糸崎神社には顕彰碑が建立されています。広策は、後に日本棋院初代理事長を務める瀬越憲作も生まれた安芸国能美島の出身で、秀策より11歳年上でしたが、本因坊家への入門が遅く、秀策に色々と世話になっていたそうです。若い頃、博打に熱中していた広策は秀策からも借金していて、秀策は故郷の家族へ宛てた手紙の中で、もし広策が訪ねてきても信用せず、お金を貸さないようにと伝えていますが、一方で同郷のよしみで囲碁十訣を贈るなど色々面倒を見ていたため、秀策の死後、悔い改めた広策は、秀策ゆかりの地を東奔西走し募金をあつめ顕彰碑を建立したのです。さらに、広策は秀策の打碁集「敲玉余韻」を刊行しますが、敲玉余韻はプロアマ問わず棋士たちに愛読され、明治以降の囲碁界に大きな影響を与えています。なお、広策は敲玉余韻の冒頭に秀策より贈られた「囲碁十訣」が掲載されています。明治37年刊行の「秀策口訣棋譜」で広策は、あとがきに秀策の事を碁聖と記していますが、これがきっかけで本因坊秀策は、江戸時代三人目の碁聖と称されるようになります。

 江戸時代には碁聖のうち、道策を前聖、丈和は後聖と称されていましたが、明治期には丈和は争碁を避け策略により名人碁所に就任したというマイナスのイメージから碁聖と呼ばれなくなり、秀策が後聖と称されるようになります。しかし、近年の研究で丈和が争碁を避けたというのは誤解であったなど新事実が判明したことから再び丈和が碁聖と称されるようになり、現在では、丈和と秀策双方が後聖と称されるようになりました。もっとも碁聖と称するのに明確な基準は無いため、丈和こそ最強と考える人は秀策を後聖と呼ぶのに否定的で、秀策を支持する人は一度碁聖の称号を外された丈和を後聖とするのに否定的など、人によって考え方は様々なようです。

 幕末期にすい星のごとく現れ、若くして亡くなった碁聖本因坊秀策は、今でも史上最強の棋士として名前が挙がるなど人々から讃えられています。