2022年10月21日金曜日

十四世跡目 本因坊秀策

 

本因坊秀策

 傑出した囲碁の名手に対する尊称「碁聖」と称された江戸時代の碁打ちは、四世本因坊道策、十二世本因坊丈和、そして当主となる前に亡くなりながら碁聖と讃えられているのが十四世本因坊跡目秀策の三人です。

 秀策は江戸時代末期の文政12年(1829)5月5日に、瀬戸内海に浮かぶ現在の広島県尾道市因島で商いを営む桑原輪三の次男として誕生、幼名は虎次郎と言いました。

 現在の広島県三原市西野で代々庄屋を務める安田家に生まれ桑原家の婿養子となった父、輪三は、教養に富み人格者で、尾道の財界人とも親交を深めていたそうで、母のカメは貞淑な妻として夫を支える一方、当時の女性としては珍しい囲碁の愛好家でもありました。

 幼い頃の虎次郎は、碁石を持たせると泣き止む子供で、いたずらをして父に押し入れに閉じ込められた際に、急に鳴き声が聞こえなくなったので覗いてみると、薄暗い中で夢中で碁石を並べていたという逸話も残されています。

 本格的に母から囲碁を教わったのは五歳の頃からで、その実力は見る見るうちに上達していったそうです。

 天保5年(1834)虎次郎が六歳の時に尾道きっての豪商、橋本吉兵衛と対局する機会を得て、とても子供とは思えない実力に驚いた吉兵衛は、輪三に「この子は将来有望な子供であり、自分も力になりたいから大切に育てるように」とアドバイスをします。橋本竹下と号し、頼山陽ら一流文化人を支援するなど、当時の尾道文化の中心人物であった橋本吉兵衛との出会いが、虎次郎の運命を大きく変えることとなるのです。

 当初、吉兵衛に九子置いて対局していた虎次郎は、一年後には吉兵衛を上回る実力となり「因島に碁の神童が現れた」と対局の申し込みが殺到、それがこの地を治める広島藩筆頭家老で三原城主の浅野忠敬の耳にも入り、囲碁好きの忠敬は虎次郎を橋本吉兵衛を通じ召し出します。虎次郎の実力に感心した忠敬は、その後も度々虎次郎を城に招き碁の相手をさせています。なお、この頃より桑原虎次郎は代々名主を務める父の実家の姓を名乗り安田栄斎と名を改めていて、城に近い安田家から登城していたのではないかとも言われています。

 浅野忠敬は栄斎の将来を考え、芸州随一の碁打ちと言われる自分の碁の師匠、竹原の宝泉寺の葆真和尚に栄斎を預けますが、漢学や画にも通じる葆真和尚から栄斎は囲碁以外にも、後に本因坊家跡目になるのに恥ずかしくない様々な教養を学んでいきます。

 宝泉寺での修行中の天保八年(1837)に、栄斎は芸州を訪れた本因坊門下五段の伊藤松次郎、後の伊藤松和と対局していますが、知人から頼まれ対局を承諾した松次郎は当初、幼い少年を見て不機嫌となり「初段の腕前と聞いていたが、どうせ少しぐらい強いのを鼻にかけて、あちこちの座敷に呼ばれて碁を打っていたのであろう」とあざ笑ったそうですが、実際に対局してみて栄斎の棋力に驚愕し、その実力を認めざるを得なかったと言います。後に秀策が本因坊家跡目に決まった際に、伊藤松和はこの時の非礼を正式に詫びたそうですが、秀策は「あの時の言葉があったからこそ、私は自分を励ますことができました。」と逆にお礼を述べたと伝えられています。やがて師匠の葆真和尚を凌ぐ碁打ちへと成長した栄斎は浅野忠敬の手配で本因坊家への入門が許されますが、一説には松次郎の推挙があったためとも言われています。

 こうして天保八年(1837)11月に安田栄斎は江戸へ旅立ち、十二世本因坊丈和の門人となります。囲碁界を統括する名人碁所であった丈和は、当時上野寛永寺へ至る上野車坂下にある道場に多くの門弟を抱えていましたが、内弟子となった栄斎は、そこで懸命に修行の日々を過ごしています。当時の修行は師匠に直接手ほどきを受けるのではなく、道場の掃除や師匠の身の周りの世話をしながら合間に棋譜を並べたり、兄弟弟子と手合わせをするというものでした。ある日、丈和は兄弟弟子と対局している栄斎の碁にふと目を止め、「これは百五十年来の碁豪である。我が本因坊家の門風は、これにより大いに挙がるであろう。」と大変喜んだと伝えられています。百五十年来とは本因坊道策以来という意味であり、栄斎の才能を高く評価していたのです。天保10年(1839)11月29日、栄斎は入門後僅か二年、11歳という若さで初段の免状を与えられますが、師匠丈和はその翌日に碁所を引退し先代本因坊元丈の子である丈策が家督を継承、土屋秀和がその跡目となっています。そして、栄斎に対しては漢学や書道を学ばせていますが、これは秀和が当主となった時に栄斎を跡目へと考えていたためとも言われています。

 異例の速さで初段となった栄斎は、師匠の勧めもあり、天保11年(1840)に一時帰郷していますが、栄斎の快挙を大変喜んだ浅野忠敬は飢饉で財政が苦しい中、栄斎に五人扶持の家禄を与えて広島藩の儒学者のもとで学問が学べるよう取りはからったそうです。翌年、江戸へ戻る途中に栄斎は大阪で井上門下の中川順節五段と対局していますが、関西屈指の碁打ちである順節に、当時十三歳の栄斎は二子置いてではありますが四戦全勝となり関西囲碁界は騒然。棋譜は囲碁好の仁孝天皇へも献上され、天皇は石を並べながら大変喜ばれたと伝えられています。一連の騒動は江戸へも伝わり、本因坊家では栄斎を二段に昇段させ、秀策の名を与えています。

 その後、秀策は実戦を重ねていき、天保14年(1843)15歳の頃に急激に棋力を向上させたと言われていて、いわゆる秀策流と呼ばれる布石もこの頃より用いるようになります。驚異的なスピードで昇段を重ね16歳で四段となり、二度目の帰郷を果たした秀策に対し浅野忠敬は家禄を増禄い、その恩に報いるため秀策は約一年間の滞在して忠敬ら三原城の人々や、宝泉寺の葆真和尚らと碁を打っています。


耳赤の一局

 弘化3年(1846)江戸に戻る途中、大阪に立ち寄った秀策は、ここで井上家最強の井上幻庵因碩と対局しています。名人碁所の座をめぐり本因坊家と激しい対立を繰り広げた幻庵因碩ですが、この時期には丈和の息子、井上秀徹を跡目に迎えていて、江戸を出て大阪に滞在していた際に、かつて中川順節と対局し話題となった秀策が大阪へ立ち寄ったため対局の場が設けられたようです。当初、準名人八段の幻庵に対し、四段の秀策が二子置いて対局は始められますが、幻庵は秀策の実力が四段どころでない事に気づき一旦中止され、翌日改めて秀策の先で打ち直すという異例の展開を辿り、弘化3年7月21日(1846.9.11)に改めて打たれた一局こそ、現在でも語り継がれる名局「耳赤の一局」なのです。

対局は中盤まで百戦錬磨の幻庵が有利な形勢で展開していき、それを見つめる人々は幻庵の勝利を確信していましたが、長考を重ねた末、秀策が127手目を打った時に、観戦していた一人の医師が「秀策の勝ち」とつぶやき、周りの者が理由を尋ねたところ、「碁の内容は良く分からないが、先ほどの一手が打たれた時に、井上先生の耳が赤くなった。あきらかに動揺し、自信を失った証拠である。」と述べたそうです。事実、秀策が繰り出した妙手により対局の流れが変わり、この一局は秀策の勝利となっています。その後、数日かけ計4局は秀策の三勝一局打掛となり、後に幻庵は秀策の事を「十八歳にして既に七段の域に達している。今後どれだけ強くなるか計り知ることが出来ない」と語っていたそうです。

 秀策の成長は天賦の才だけではなく努力を怠らず修行に励んでいった結果ですが、この時代は多くの実力者が登場する囲碁界の黄金期であり、秀策は丈和の長男で後に井上家当主となる葛野忠左衛門、本因坊家塾頭を務めた岸本左一郎ら兄弟子や、安井家の九世安井算知や太田雄蔵らに胸を借り成長していきます。中でも秀策の最大のライバルと言われた天保四傑の一人である太田雄蔵は、秀策より22歳年上で本因坊家跡目となる秀和ともライバルとして多くの対局を行い、嘉永元年(1848)には御城碁への参加が可能な七段になっていますが、雄蔵が御城碁に参加する事は無く、その理由として男前で女性にもてた雄蔵が剃髪を拒否したという俗説も残されています。秀策が本因坊家跡目となった後のある日、囲碁好きの旗本・赤井五郎作の屋敷に天保四傑らが集まり碁を打っていたところ秀策の話題となり、皆が今の秀策にかなう棋士はいないだろうという話になりますが、当時秀策と対戦成績が互角であった雄蔵だけが納得せず、赤井が発起人となり嘉永6年(1853)に秀策と雄蔵の三十番碁が開催されています。対局は雄蔵が17局までで6勝10敗1ジゴとなり、先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴへと追い込まれたため、第23局目で雄蔵が絶妙の打ち回しで白番ジゴとしたところで三十番碁は終了。その後、越後へ遊歴に出た雄蔵は安政3年(1856)に旅先にて客死しますが、知らせを聞いた秀策の悲しみは相当なものだったといいます。

 丈和や丈策は、井上幻庵因碩に勝利するという快挙を達成した秀策を五段へと昇段させると、いよいよ秀策を秀和の次の跡目にするべく動き出します。

しかし秀策自身が、自分はあくまでも三原浅野家から扶持をもらっている身であるからと固辞したため、寺社奉行を介して三原浅野家の本家である広島藩浅野家へ断りを入れたうえで浅野忠敬の了解を取り付け、ようやく秀策に跡目となる事を承諾させています。弘化4年(1847)秀策が19歳の年に、秀策が跡目となる事に尽力した本因坊丈策、次いで隠居の丈和が相次いで病のために亡くなり、秀和が第14世本因坊に就任、秀策も正式に秀和の跡目となり六段へ昇段すると共に、師匠丈和の長女、花との婚約も決定しています。嘉永2年(1849)に御城碁へ初参加した本因坊秀策は、安井算知と対局し先番の秀策が終始リードして十一目勝ちを収めますが、この日以降、秀策は御城碁において最後に参加する文久元年(1861)まで、前人未到の19連勝という大記録を打ち立てていくのです。

 嘉永3年(1850)には跡目就任の報告のため再び帰郷していますが、囲碁家元筆頭本因坊家の跡目ということで、その道中でも大歓迎され、各地で指導碁を行いながらの帰郷だったそうです。故郷では浅野忠敬が大歓迎し、秀策を見出した橋本吉兵衛は秀策の六段昇段と跡目相続を記念して記念対局を企画し、飢饉救済事業として吉兵衛が行った菩提寺・慈観寺の本堂再建工事の竣工祝いとして、秀策の兄弟子、岸本左一郎との対局が行われています。世界遺産・石見銀山で知られる現在の島根県大田市大森で暮らす左一郎は、元本因坊家塾頭として修行時代の秀策を鍛えた人物で、記念対局後も秀策が安芸、備後、石見、出雲などを巡り囲碁の普及に努める中、大森の左一郎邸を訪ねたり、各地へ左一郎が出向いて対局するなど旧交を温めていたそうです。御城碁で連勝を続け名声が全国へと広がっていった秀策は、各地に招かれ対局する機会も増えていき、嘉永4年(1851)には信濃国松代にて、本因坊門下初段ながら五段格の実力があり素人日本一と称された関山仙太夫との有名な二十番碁が行われています。

石谷広策へ贈った「囲碁十訣」

 安政四年(1857)ふと思い立ち秀策は四度目の帰郷をしていますが、これが秀策最後の帰郷となります。この時、秀策は実家で同じ芸州出身の弟弟子、石谷広策と対局し、その際、有名な「囲碁十訣」を広策に書き贈っています。「囲碁十訣」は唐の時代の囲碁の名手、王積薪が造ったとされる格言で、秀策は座右の銘としていました。

 幕末の動乱により、この時期は御城碁が行われない年もありましたが、秀策が33歳となった文久元年(1861)は囲碁好きの第十四代将軍徳川家茂の強い希望によって御城碁が開催され、秀策は既定の御城碁で林門入、お好み碁で林有美と対局し、御城碁十九連勝という快挙を達成しています。しかし、これが秀策が参加した最後の御城碁となります。

秀策の墓(本妙寺)

 御城碁が終わって間もなくの文久元年12月に最愛の母カメが亡くなり、人一倍親思いであった秀策は追善供養のため一切の生臭いものを断つ精進生活に入る中、開けて文久二年三月には秀策を見出し様々な支援を行ってきた橋本吉兵衛の訃報が届き、秀策は悲しみに暮れる日々を過ごします。折しも江戸ではコレラが大流行していて、本因坊家でも多くの感染者が出ている状態で、人格者であり人一倍優しかった秀策は、秀和が止めるのも聞かず懸命に患者の看病にあたりますが、ついに秀策自身が感染し、一週間ほど後の、文久二年8月10日に34歳の生涯を閉じます。皮肉なことに秀策の看病のおかげか、江戸で多くの犠牲者が出る中で、本因坊家で亡くなったのは秀策ただ一人だったと言われています。

 当主となる前に亡くなった秀策ですが、明治期になると弟弟子の石谷広策が、その遺徳を偲び顕彰活動に尽力し、三原市の糸崎神社には顕彰碑が建立されています。広策は、後に日本棋院初代理事長を務める瀬越憲作も生まれた安芸国能美島の出身で、秀策より11歳年上でしたが、本因坊家への入門が遅く、秀策に色々と世話になっていたそうです。若い頃、博打に熱中していた広策は秀策からも借金していて、秀策は故郷の家族へ宛てた手紙の中で、もし広策が訪ねてきても信用せず、お金を貸さないようにと伝えていますが、一方で同郷のよしみで囲碁十訣を贈るなど色々面倒を見ていたため、秀策の死後、悔い改めた広策は、秀策ゆかりの地を東奔西走し募金をあつめ顕彰碑を建立したのです。さらに、広策は秀策の打碁集「敲玉余韻」を刊行しますが、敲玉余韻はプロアマ問わず棋士たちに愛読され、明治以降の囲碁界に大きな影響を与えています。なお、広策は敲玉余韻の冒頭に秀策より贈られた「囲碁十訣」が掲載されています。明治37年刊行の「秀策口訣棋譜」で広策は、あとがきに秀策の事を碁聖と記していますが、これがきっかけで本因坊秀策は、江戸時代三人目の碁聖と称されるようになります。

 江戸時代には碁聖のうち、道策を前聖、丈和は後聖と称されていましたが、明治期には丈和は争碁を避け策略により名人碁所に就任したというマイナスのイメージから碁聖と呼ばれなくなり、秀策が後聖と称されるようになります。しかし、近年の研究で丈和が争碁を避けたというのは誤解であったなど新事実が判明したことから再び丈和が碁聖と称されるようになり、現在では、丈和と秀策双方が後聖と称されるようになりました。もっとも碁聖と称するのに明確な基準は無いため、丈和こそ最強と考える人は秀策を後聖と呼ぶのに否定的で、秀策を支持する人は一度碁聖の称号を外された丈和を後聖とするのに否定的など、人によって考え方は様々なようです。

 幕末期にすい星のごとく現れ、若くして亡くなった碁聖本因坊秀策は、今でも史上最強の棋士として名前が挙がるなど人々から讃えられています。


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