稲垣日省こと稲垣兼太郎は江戸で生まれた本因坊門下で、明治2年(1869)16歳の時に初段を許されますが、囲碁で身を立てることは考えず陸軍省へ出仕、西南戦争で活躍した後、大蔵省へ転じています。
その後、事業を始めていますが、その才能を惜しんだ村瀬秀甫の誘いにより方円社設立にも参加し三段まで進んでいます。ただし事業へ専念するため定式会への参加は散発的だったそうです。
20年ほど経った頃、商売が上手くいかず悩んでいた稲垣は、方円社の巌崎健造の勧めもあり囲碁へ専念することを決意、やがて五段へと昇進します。
そして、明治41年(1908)に旧知の田村保寿が本因坊家当主、本因坊秀哉となったのを機に、その門人となりました。
全国を巡り各地の棋士と手合をしていった稲垣は、やがて名古屋の囲碁関係者に招かれ明治43年(1910)に中京囲碁会を設立。
江戸っ子らしく、さっぱりした性格で多くの人に慕われ、中京地区での囲碁の発展に尽力していきます。
明治45年(1912)には六段へ昇段し、その披露会において京都寂光寺より「日省」の号が贈られ、寂光寺に伝わる算砂が近衛関白より贈られた碁盤と碁石を使った対局も行われています。
大正11年(1922)、古稀を迎えた祝いとして、名古屋市昭和区にある高野山真言宗の別格本山、八事山興正寺へ有志により寿碑が建立されています。
寿碑が建立された際には、興正寺前にある老北大路魯山人ゆかりの舗料亭八勝館において、東西の名立たる棋士ら400名が出席する盛大な記念棋会が開催されています。
翌大正12年(1923)に開催された碁界合同の協議会に参加した稲垣は、翌年の日本棋院設立にも参加し、昭和4年(1929)には七段へ昇段、昭和15年(1940)に亡くなっています。
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