夏目漱石 |
夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園) |
明治時代の文豪・夏目漱石は、特に囲碁好きという訳ではありませんでしたが、いくつか囲碁を題材とした俳句を残しているほか、デビュー作『我輩は猫である』では最終話(11話)が囲碁の場面で、対局の様子をかなり詳しく描いています。
夏目漱石(本名:金之助)は、慶応3年(1867)江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生まれ、帝国大学英文科卒後、松山中学や熊本の第五高等学校に英語教師として赴任しています。
明治33年にはイギリスへ留学しますが、留学中は極度の神経症に悩まされていたと言います。
「漱石」のペンネームは大学在学中より使用し、由来は唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)で、負け惜しみの強いこと、変わり者の例え。
大学の同窓生で親友の俳人・正岡子規も一時期「漱石」を名乗っていたことから、子規から譲り受けたのではないかという説もあります。
漱石と子規の親交は子規が病で亡くなるまで続き、漱石は俳句を主に子規に見せるために作っていたとも言われていて、子規の代表作「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、漱石が詠んだ「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」がヒントになっていると言う説もあるそうで。
したがって、漱石の囲碁の句も、囲碁の愛好家として知られた子規を意識していたのかもしれません。
漱石が詠んだ囲碁の句
「連ぎょうの奥や碁を打つ石の音」
「盛り崩す碁石の音の夜寒し」
漱石はイギリス留学からの帰国後、東京帝大英文科で教鞭をとっていましたが、明治38年(1905)に子規の門人であった高浜虚子に奨められて俳句雑誌「ホトトギス」で『吾輩は猫である』を発表。
当初は読み切り作品として掲載されますが好評を博したため、翌明治39年(1906)8月まで連載されています。
『我輩は猫である』は漱石自身がモデルと言われる英語教師の珍野苦沙弥の飼い猫「吾輩」の目を通して人間社会を風刺的に描いた作品。
最終話(11話)は珍野の家で友人の迷亭が哲学者の独仙と碁を囲む話が中心で、呑気な迷亭とクールな独仙がコミカルなやり取りをしながら対局が進みます。
形勢が不利になった迷亭が何度か待ったをして「ちょっとこの白をとってくれたまえ」「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」と言うと、独仙は「この石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから」と拒否。
それに対して迷亭は、独仙が当初勝敗にこだわらないと言っていたことを指摘しますが、独仙は「僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」と反論するなどユニークな会話で物語が展開していきます。
両者の対局を見ていた吾輩は「広くもない四角な板をさらに狭苦しく仕切り、ごたごたと黒白の石を並べて、勝った、負けたと、あぶら汗を流して騒いでいる。窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を現し、広大な世界を自ら縮め、己れの立つ場所以外には踏み出せないようにするのが好きなんだ。人間とはしいて苦痛を求めるものである。」と皮肉っています。
その後、珍野らも帰ってきて皆で雑談をしながら対局は続き、やがて飲み会へと移行。来客が帰ったあとに吾輩に悲劇が起こるというのが最終話のストーリーです。
漱石は最終話でかなり詳しく詳しく対局の様子を描写している事から好きかどうかは別として、そこそこ囲碁は打てたのではないかと考えられています。
文壇デビューを果たした漱石は、その後も『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表し、明治40年(1907)には創作に専念するため東大を退職して朝日新聞社に入社。
『三四郎』『それから』『行人』『こころ』など、日本文学史に輝く数々の傑作を著し明治期の文壇をけん引していきます。
やがて胃潰瘍を患った漱石は、入退院を繰り返しながら執筆活動を続け、大正5年(1916)に病状悪化により亡くなっています。享年50歳。当時、朝日新聞に連載中の『明暗』は未完のままでした。
漱石は小説「こころ」の舞台のひとつであった雑司ヶ谷霊園に葬られますが、その墓は安楽椅子の形をしたユニークな形状で、妻の妹婿の建築家鈴木禎次によるデザインだそうです。
また漱石の功績を讃えて昭和59年(1984)から平成19年(2007)までの間、千円札の肖像画として採用されています。
墓所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目) 1種14号1側3番
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