本因坊秀策が因島から江戸へ出て、本因坊家跡目となっていく間には多くの人々の支援がありました。
特に最初に秀策の才能を見出し支援した人物として、尾道の豪商・橋本吉兵衛(竹下)の名が挙げられます。
江戸時代、北前船が寄港し大阪、九州との交易地であった広島県の尾道は、広島藩最大の港町として発展してきました。
橋本家(屋号「灰屋」)は尾道にて一族で廻船問屋や金融業・醸造業などを営む豪商ですが、もともと紀州橋本の出であり浅野家が紀州から広島に移住する際に随伴してきたと伝えられています。
一族は本家の次郎右衛門家(灰屋ないし東灰屋)と分家の吉兵衛家(角灰屋)に分かれ、その後、本家から甚七家(西灰屋)が分かれています。
享保期頃(18世紀前半)には西灰屋が一族の中心的存在でしたが,その後衰退していき、代わって角灰屋が質店など西灰屋の経営も引き継ぎ事業を拡大していきます。
角灰屋はもともと廻船問屋に資金を貸し付ける商いをしていて、その担保は船荷である穀物などが中心でしたが、文化文政期以降(19世紀前半)七代橋本吉兵衛徳聰の頃から担保を土地や建物などに切り替え、不動産業や耕地を利用した塩田の運営によって尾道最大の豪商へと成長していきます。
角灰屋は当主が代々吉兵衛の名を継いでいて、明治期の当主、九代吉兵衛徳清(海鶴)は、明治11年(1878)第六十六国立銀行(現広島銀行)設立に尽力し初代頭取に就任。政治家としても活躍しています。
本因坊秀策を支援したという橋本竹下とは七代橋本吉兵衛徳聰の事で、豪商としてだけでなく、尾道文化人の中心的人物としても知られた人物です。竹下は号であり、名前ものちに荘右衛門と改めています。
徳聰は寛政2年(1790)、先代橋本吉兵衛徳貞の妻の実家である三原川口氏に生まれ橋本家へ養子として迎えられます。
文化5年(1808)に徳貞が没し吉兵衛を襲名して家督を相続。灰屋の当主であり、僅か19歳で尾道町年寄にも就任しています。
竹下の事業運営は自らの利益追求というより公共性、社会性に配慮したものであったと言われています。
天保飢饉により尾道近辺に発生した困窮者の救済策として,食料を無料で配布するのではなく、私財により公共事業を行い、困窮者を雇って仕事に従事させています。
具体的には自らの檀那寺である慈観寺の本堂再建工事や、三原(糸崎)沖へ大規模な塩田を造成。自宅の新築工事もありました。
竹下には、ただで物を与えては自立心が育たず、真の復興につながらないという信念があったのかもしれません。尾道では餓死者を一人も出すことは無かったと言われています。
三原沖に造成された塩田は天保新開と称され橋本家の事業の柱のひとつとなっていきますが,もとはこのように救済支援策が始まりだったのです。
文献によると竹下は「学を好み、詩文に秀で、風流洒落ある紳士、身分の高低問わず、誰にでも礼をもって接し、人々から慕われる君子」と評されています。
文人としての一面を持つ竹下は、地元で活躍した女流画家、平田玉蘊らと交友し支援した事で知られますが、自身も福山藩お抱えの儒学者で漢詩人としても知られた菅茶山に学び、次いで京都で幕末の尊王攘夷運動へも影響を与えた思想家・漢詩人の頼山陽の門人となっています。
竹下の遺した漢詩は、後に息子たちによって編まれた「竹下詩鈔」(1884年刊)などで紹介されています。
囲碁も嗜んでいたようで、碁聖・本因坊秀策の碁才にいち早く目を留め、三原藩主へ推挙したのも竹下でした。
天保5年(1834)秀策が六歳の時に竹下と対局する機会を得て、とても子供とは思えない実力に驚いた竹下は、父親に「この子は将来有望な子供であり、自分も力になりたいから大切に育てるように」とアドバイスします。
一年後には竹下を上回る実力となり「因島に碁の神童が現れた」と対局の申し込みが殺到、それが三原城主の浅野忠敬の耳に入り、竹下は秀策を忠敬に引き合わせたのです。
江戸での修行が始まり頭角を現していく秀策は、報告のため何度か帰郷していますが、その際には尾道の竹下を訪ね交流をはかっています。
嘉永3年(1850)に跡目就任の報告のため秀策が帰郷しますが、大変喜んだ竹下は秀策の六段昇段と跡目相続を祝して記念対局を企画。先に紹介した慈観寺の本堂再建工事の竣工記念も兼ねて、慈観寺にて秀策と、秀策の兄弟子で元本因坊家塾頭の岸本左一郎との対局を開催しています。
江戸時代後期から大正時代の初めにかけて、尾道では豪商が斜面地や海岸沿いの風光明媚な場所に「茶園(さえん)」と呼ばれる別荘を建てることが増え、文人たちの交流の場となります。
現在、庭園が一般公開されている竹下の別荘「爽籟軒」にも多くの文人が集っています。
竹原出身の頼山陽は実家へ帰る途中、必ず尾道の竹下を訪ね、滞在が長期に及ぶこともあったと記録されていますが、爽籟軒に滞在していたのでしょうか。
秀策も尾道滞在時は爽籟軒を訪ねていたと思われ、竹下のことを「茶園の大人」と称していたそうです。
竹下は50歳の頃に失明し、56歳で隠居したと記録されていますが、その後も詩文の創作・執筆は止まることはなかったと伝えられています。
秀策との交友も生涯続きます。文久元年(1861)12月に秀策に囲碁の手ほどきをした最愛の母カメが亡くなりますが、秀策はそれを竹下からの手紙で知らされています。
そして文久2年(1862)3月4日、橋本竹下は72歳の生涯を閉じ慈観寺の墓所に葬られます。
大切な人々を相次いで亡くし悲しみに暮れる秀策ですが、自身も竹下の死から数ヶ月後の文久二年8月10日にコレラで34歳の生涯を閉じています。
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