2022年11月25日金曜日

西郷隆盛

 


 大久保利通、木戸孝允と共に維新の三傑に挙げられる西郷隆盛は、囲碁の愛好家としても知られ、昭和42年には明治100年を記念して日本棋院から名誉七段が贈られています。

 隆盛は、文政10年薩摩藩の下級武士西郷吉兵衛隆盛の長男として鹿児島城下で生まれ、幼名は小吉、名は隆永、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助などを名乗り、明治以後になり父と同じ隆盛を名乗ります。

 11歳の頃、友人の喧嘩の仲裁で右腕を切られ刀を握れなくなり、学問で身を立てようと勉学に励んだ西郷は、仲間のリーダーとして信頼を得て、両親の相次ぐ死で嘉永5年(1852)に家督を相続。

 安政元年(1854)に藩政に関する上書を提出したことで藩主島津斉彬に見いだされ庭方役に抜擢されます。

 将軍継嗣問題において一橋慶喜を擁立する一橋派の斉彬の片腕として江戸や京都で活躍し天下に広くその名を知られますが、安政5年(1858)に紀州藩主・徳川慶福(家茂)を推す紀州派の井伊直弼が大老に就任し、間もなく斉彬が急死したことで情勢が一変。

 いわゆる「安政の大獄」で一橋派および攘夷派への弾圧が始まり、西郷は攘夷派の僧月照と共に鹿児島へと逃れていきますが、藩の実権を握った久光(斉彬の弟で新藩主の父)は、幕府との対立を避けるために西郷らの国入りを拒否、絶望した二人は鹿児島湾で投身自殺をはかり西郷のみ命を取り留めます。有名な西郷の「敬天愛人」の思想は、この事件により天命を悟り生まれたと言われています。

 西郷は、生存を隠したい藩により菊池源吾と名を変えさせられ奄美大島へと流されていましたが、斉彬の遺志を継いで公武合体運動に着手した島津久光は、趣味の囲碁を通じて取り立てた西郷の盟友大久保利通の働きかけもあり、文久2年(1862)に人望厚い西郷を呼び戻します。

 西郷はこのとき大島三右衛門と名乗り活動していますが、久光の計画はずさんであると批判的で、京で尊攘派の藩士が決起する動きがあると、下関での待機命令を無視して独断で上洛し藩士らに思いと止まるよう説得。この行動が久光の怒りに触れ、徳之島ついで沖永良部島への遠島処分を受けます。

 しかし、久光が目指す雄藩連合による公武合体政策が行き詰まり 西郷は元治元年(1864)に再び召還され藩勢の回復にあたることとなります。

 当時、攘夷を唱えながら、綿や茶の密貿易を行っていた薩摩藩への世間の評判は最悪で、軍賦役(軍司令官)として京都へ赴任した西郷は密貿易の取り締まりを強化。さらに、政変により京都を追放された長州藩が起こした蛤御門の変で、薩軍を指揮して長州軍を撃退して藩の地位を向上させていきます。

 その後、側役に昇進した西郷は吉之助と名乗り、第一次長州征伐において征長軍の参謀として長州藩の無血降伏へ尽力していきます。

 しかし幕府と薩摩藩の関係が悪化していくと、坂本龍馬らの仲介もあり宿敵である長州の木戸孝允と薩長盟約を締結。盟友の大久保と共に藩内を倒幕の方向へとまとめ、慶応2年(1866)に始まった第二次長州征伐において薩摩藩は幕府の出兵命令を拒否、戦いは将軍徳川家茂、孝明天皇の相次ぐ死により幕府劣勢のまま終結します。

 勢いを増す薩長を中心とする討幕派に対し、新将軍徳川慶喜は起死回生を狙い大政奉還しますが、西郷らは王政復古のクーデターに持ち込み明治政府を樹立。あくまで武力による討幕にこだわり、度重なる挑発により慶応4年(1868)に戊辰戦争が開始されると、西郷は東征大総督府参謀として政府軍の指揮を執り江戸へ進軍を開始しています。しかし、江戸総攻撃については西郷と勝海舟の会談により直前で中止され、江戸城が無血開城されています。

 戦後、西郷は鹿児島へ帰り藩政改革を指導していましたが、新政府の基盤強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて明治4年(1871)に政府へ復帰すると、天皇と御所を警備する御親兵の設置や、廃藩置県に主導的役割を果たしていきます。

 政府は、諸外国との不平等条約改正のため、明治4年に岩倉具視、大久保ら政府首脳による岩倉使節団を欧米へ派遣しますが、西郷は太政大臣三条実美を首班とする留守政府で筆頭参議兼大蔵省御用掛として任にあたっています。

 使節団と留守政府の間には重大な改革は行わないという合意がありましたが、問題が山積する政府においてそれは難しく、留守政府は兵部省を廃止し陸軍省・海軍省を設置するなど様々な改革を断行。

 特に朝鮮釜山の大日本公館をめぐるトラブルでは、李氏朝鮮が明治政府を幕府に変わる日本の代表と認めず、国書の受け取りさえ拒絶するほど対立が深刻化。

 板垣退助らが居留民保護を理由に出兵を主張する中、西郷は自らが使節として朝鮮に渡り日朝国交正常化を実現したいと主張。一旦は西郷の要望どおり使節派遣が決定しますが、もし西郷に何かあれば、そのまま武力衝突へ発展することから、三条実美は最終決定を岩倉、大久保らが帰国するまで先延ばしすることとします。

 帰国した岩倉らは内政優先の立場から西郷派遣に反対し、調整にある三条が苦悩のあまり倒れたため、太政大臣代理となった岩倉により使節派遣の中止が決定します。

 西郷はこの処置に抗議し辞表を提出し、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議もこれに続き野に下ります。この出来事は後に「明治六年政変」と呼ばれています。

 通説では西郷は征韓論に敗れ野に下ったと言われていますが、このように西郷の真意は武力侵攻ではなく平和的解決であったとも言われています。

 鹿児島へ帰郷した西郷は、同調して鹿児島へ帰ってきた士族達の行く末を案じ、私学校を設立して指導にあたります。

 しかし当時、廃刀令や徴兵令の制定による士族の不満の高まりから、秋月の乱、萩の乱など各地で反乱が勃発し、鹿児島での私学校派士族の動きを警戒する政府は、密偵を放ち、あわせて県下の弾薬庫から火薬・弾薬を順次船で運びださせるなどの動きを見せます。

 そうした中、私学校に捕らえられた密偵が、西郷暗殺計画を自白したとして、明治10年(1877年)ついに反乱(西南戦争)が勃発します。

 当初、門弟の暴発を防ごうとしていた西郷ですが時すでに遅く、心ならずも擁せられる形となり西郷軍は進軍を開始。熊本城周辺での政府軍と壮絶な戦いの後、戦争は一旦膠着状態となりますが、田原をめぐる戦いで西郷軍に多大な犠牲者が出たのを機に次第に劣勢となり薩摩へと後退。そして9月24日、西郷は鹿児島城山における決戦にて、壮絶な戦死を遂げています。

 西郷を高く評価していた明治天皇は、その死の知らせを聞き「西郷を殺せとは言わなかった」と語っていたと伝えられ、明治22年(1889)には大日本帝国憲法発布に伴う大赦により赦され正三位が追贈されています。


碁を打つ西郷隆盛像(西郷洞窟)

 温泉好きでもあった西郷が利用したという温泉が鹿児島県内にいくつかありますが、その際に碁を打ってくつろいだという話もあり、高城温泉郷には西郷が使用したという碁盤と碁石も残されています。
 幕末から明治期にかけて活躍した本因坊門下の女流棋士、吉田悦子の谷中霊園にある墓碑を確認した際、碑文の中に西郷の名を見つけました。
 吉田の支援者であった大垣藩家老の戸田三彌は、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府側に属する藩を新政府へと恭順させた人物ですが、戦いの前年(慶応3年)に吉田を伴い大阪へ出向き大久保利通らと接触、その後、京都で岩倉具視、西郷隆盛、後藤象二郎らの碁の相手をさせたと記録されています。大久保や西郷らは討幕に向けて議論しながら、その合間に碁を囲みコミュニケーションを図っていた様子がうかがえます。
 西郷の囲碁に関する最も有名なはなしは、西南戦争の終盤、西郷は最期の5日間を終焉の地となる洞窟で碁を打ちながら過ごしたというはなしです。敗色濃厚な中、西郷は碁で気持ちを落ち着かせていたのでしょうか?
 西郷が亡くなった地である西郷洞窟(鹿児島市城山町)には、現在、碁を打つ西郷の像が建立されています。

 最後に幕府が崩壊し、家元が新政府から支援を打ち切られた際のはなしを紹介します。
昭和19年に刊行された「碁道史談叢」(高部道平 著)に、次のように掲載されています。(現代語訳)

 維新、すなわち明治と年が改まって、家元四家や、その四家の各門下七段以上の有禄者が無禄となった。
 それは三条実美、西郷隆盛、木戸孝允という維新の元勲が碁所に来て、手合やその他の儀式を見せてもらいたいと言って来たので、碁所では徳川幕府の従来通りを見せた。
 それに対して西郷公は「一先ず碁所を廃す。そのうち何んとか沙汰をする」と言った。これで無禄となった次第である。
 家元でさえ「囲碁稽古所」という小看板を出して生活を維持している。三段などの生活難は極度であった。
 明治八年となって、福井県福井で、第十五世本因坊秀悦六段、安井算英五段、中川亀三郎五段や他高段者が五名出席した大碁会があって、碁道は地方都市から大都会へと復興して行った。
 秀悦六段は十四世本因坊秀和八段の実子で、秀和先生明治四年に没して十五世を襲名した。
 西郷公が順調であったなれば「何とか沙汰をする」が早く実現したであろう。しかし西南戦争で惜くも公が没した。
 その様な事情で方円社創立は明治十三年となった。創立の後援者は伊藤博文公(当時伯爵)やその他の名士百三名であった。

 著者の高部道平は、方円社に学んだ後、本因坊秀栄門下となった人物で、裨聖会、棋正社などの結成に参加。
 明治生まれのため当時の様子を直接見聞きさた訳ではないようですが、師匠や先輩から話を聞く機会があったのでしょう。
 当初囲碁界は、西郷の支援に期待していたようですが、それがかなわず、支援者の協力により方円社が設立されるまでかなりの期間を要したようです。



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