2022年2月8日火曜日
商均
商均は古代中国で理想の君主と称された五帝の一人、舜帝の子で、元の名を義均と言い、商(現在の河南省商丘虞城県)に封じられたため、商均と称されるようになりました。
司馬遷の「史記」の五帝本記、夏本紀には商均に関する記述があります。
舜帝の子の商均は不肖であったため、舜帝は後継者として黄河の治水工事で功績のあった禹を後継者として推挙します。
17年後に舜帝は逝去し、三年の喪が明けた後に禹は帝位を継がず商均へと譲りますが、諸侯たちはそれに納得せず商均ではなく禹に拝謁したため、正式に禹は天子の位を継承し、国号を夏后としています。
そして商均は、舜帝を敬う禹に領地を与えられ、夏王朝における虞国の開国の祖となりました。
三世紀後半に張華が編纂した『博物志』には「堯造囲棊教丹朱、或云、舜以子商均愚、故作囲棊以教之」(堯が囲碁を造って子の丹朱に教えた。或いは、舜は子の商均が愚かなるをもって、故に囲碁を作り教えた)とあります。
堯帝が息子のために囲碁を創始したと言うのは有名な説ですが、堯帝の跡を継いだ舜帝も息子ではなく禹へ帝位を譲っていることから、息子を教育するために囲碁を創始したのは舜帝という可能性もあるという説です。
さらに商均については次のような囲碁の話もあります。
堯帝の子、丹朱を慕っていた商均は、 丹朱より囲碁、造船、弓矢の作り方を教わったそうで、後に商均が禹と共に洪水の原因調査に出かけた際、舜帝は二人に貝殻を磨いて作った白黒の碁石が入った藤蔓で編んだ籠を渡しています。
舜帝がどういう意図で渡したかは不明ですが、退屈なときには、これでも使って遊べと言うことだったのかもしれません。
そして二人は調査に出かけますが、二人の乗った船が不意に転覆し岸に泳ぎ着いたところ、船は水辺の洞窟から出てきた長さ一〇〇メートルもある大蛇に呑み込まれてしまいました。
そこで二人は碁石の入った藤籠を餌に大蛇をおびき寄せ、大きな藤蔓で急所を縛り上げ退治したそうです。
洪水の原因は大蛇が洞穴を塞いでいたためで、帰った後に、商均と禹は改めて貝殻製の 碁石を賜り、自分たちの知力を高めたと言います。
後に夏王朝を興す禹は黄河の治水を成功させたことで知られる紀元前一九〇〇年代の伝説の帝で、この話は禹を讃えるために生まれたものと考えられます。
禹の父である鯀は、堯帝の時代に治水事業を指揮していますが、九年経っても成果を上げることができず、後に反乱を起こす堯帝の子、丹朱(驩兜)と同じ、天下に害をなした四柱の悪神「四罪」の一人に数えられています。
禹は舜に推挙される形で父の跡を継ぎ、父が行った堤防による治水ではなく、放水路を使って排水する方法により事業を成功させ、治水の英雄、開拓の英雄として讃えられています。
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