2022年2月16日水曜日

孔子

 

孔子像(湯島聖堂)


 春秋時代の思想家で儒教の始祖である孔子は、春秋時代末期、紀元前552年(あるいは前551年)に、周(東周)の諸侯国、魯国(現在の中国山東省南部)で生まれます。孔子は尊称であり、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)と言うそうです。

 古代中国は一つの都市が一つの国と言える都市国家の集合体で、それぞれの都市の長である君主を家臣が支える身分制度が確立されていました。

 しかし、有力な諸侯が周辺国を武力統合していった結果、より栄える都市への人口流動や、実力ある家臣が君主に取って代わる実力主義が横行し、旧来の都市国家における身分制度が崩壊しつつありました。

 魯国は、近隣の晋・斉・楚の大国に翻弄される小国で、当時、魯公(君主)の分家である三桓氏(孟孫氏、叔孫氏、季孫氏)が斉の力を背景に政治の実権を握っていました。

 伝統的な礼法を守り多くの門人を抱えていた孔子は大司寇(最高裁判官)兼、外交官に就任すると、三桓氏の影響力を排除し君主に実権を取り戻そうとしますが挫折。56歳の時に弟子を引き連れ亡命し13年間諸国を歴遊する生活を送っています。

 諸侯に道徳的政治の実行を説いたものの用いられず,紀元前484年、69歳の時に魯に帰国した孔子は、晩年は弟子の教育と古典研究に専念し,『春秋』やその他儒家の経典を著したと伝えられる。

 『論語』は孔子とその弟子との言行録です。孔子は囲碁を創始したという伝説もある堯,舜や、かつて中国全体を支配していた周(西周)を建国した文王,武王,周公旦らを理想の君主として尊崇して古来の思想を大成。

 為政者の徳によって民衆を教化する徳治主義を根幹とし、東周に伝えられる礼楽制度により周(西周)への復古を説いています。

 その教えは,儒教として中国思想の根幹となり,中国、日本、朝鮮半島、東南アジア諸地域に後世、大きな影響を及ぼしています。

 『論語』の中には囲碁に関する記述があります。

 「子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉、不有博弈者乎、為之猶賢乎已」、腹一杯食って終日ぼんやり暮らしていてもどうにもならない。博弈(双六や囲碁)というものがあるから、あんなものでも何もしないよりはましだと記されているのです。

 孔子は囲碁を積極的に勧めている訳ではないし、どちらかと言えば低く見ているのですが、何もしないのは良くないから、せめて双六や囲碁でもやって頭を働かせた方が良いと語っています。 

 孔子が囲碁を低く評価している背景には、娯楽の少ない時代、囲碁に熱中して学問をおろそかにする者がいたほか、当時庶民にも普及してきた囲碁が賭博で行われるがようになったためと考えられます。

 しかし、後の時代に囲碁は貴族の嗜みとされるなど、時代によって立ち位置が変わっているのです。


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