2022年1月20日木曜日

神西元通

  戦国時代、出雲国を中心に中国地方で一大勢力を築いた戦国大名尼子氏は、居城月山富田城の防衛のため出雲国内に10の支城を築き家臣団を配置。

 尼子十旗と称された家臣団のうち、第七位に位置付けられたのが神西元通です。

 出雲国神門郡の神西城の城主で、尼子氏に足軽大将として仕えた元通は、永禄6年(1563)に毛利氏の出雲国侵攻が始まり調略によって国人衆が次々離反したため、神西城を出て月山富田城へ入城します。

 毛利軍が月山富田城を包囲すると神西は大手門を死守するなど奮戦しますが、永禄9年(1566)、遂に城は落城し、戦国大名としての尼子氏は滅亡します。

 尼子氏滅亡後、神西は毛利氏へ降伏し忠勤を尽くしたことから毛利元就より伯耆国末吉城の城主に任命されますが、目付役として中原善左衛門と小寺佐渡守が城へ滞在しています。

 永禄12年(1569)、尼子氏元家臣の山中鹿之助(幸盛)が、出家していた尼子一門の尼子勝久を担ぎ尼子再興のために挙兵。

 鹿之助は神西に接触を図り、尼子側に味方する約束を取り付けていますが、末吉城には中原善左衛門と小寺佐渡守がいるため簡単にはいきませんでした。

 そこで策をめぐらした神西は、小寺が所要で芸州へ出向いた隙に、囲碁好きの中原のために林阿弥という囲碁の強豪を呼び碁会を開きます。

 中原は林阿弥との対局に夢中になりますが、それを見ていた神西が助言するように「そこを切る」と発言した瞬間、潜んでいた刺客が切りかかり中原を斬殺。こうして、神西元通は寝返り末吉城は尼子方の城となったのです。

 当初は戦いを有利に進めた尼子残党ですが、元亀元年(1570)、布部の中山(島根県安来市広瀬町布部)における決戦で敗走し京へと逃亡。

 天正5年(1577)に、中国地方侵攻をはかる織田信長の家臣、羽柴秀吉の配下に加わり、播磨国上月城を攻略して、そのまま城へ入ります。

 しかし翌年、上月城は毛利輝元が率いる大軍に囲まれ、救援の羽柴秀吉も三木城攻略のために撤退したために尼子残党は孤立。

 尼子勝久は自害し、山中幸盛は捕らえられ毛利輝元の下へと連行される途中に毛利家家臣により誅殺されています。

 そして碁会を利用して尼子残党に加わった神西元通は勝久と共に上月城で自害しています。


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