浅田宗伯 |
藤原永全(皇国名医伝) |
浅田宗伯の墓(谷中霊園) |
のど飴の代名詞とも言える「浅田飴」を処方した幕末期の漢方医、浅田宗伯は、著書『皇国名医伝』にて日本への囲碁伝来について書き著しています。
浅田宗伯は、現在の長野県松本市出身で、京都や江戸で漢方医学を学ぶ一方、頼山陽らから経書・儒学・歴史学等を学び、大坂では大塩平八郎の門人となり陽明学を学んでいたと伝えられています。
幕医・本康宗円の知遇を得て、将軍家の典医となった宗伯は、大政奉還後、天璋院が書いた徳川慶喜の助命を求める書状を西郷隆盛に届けるなど活躍しています。
維新後は、西洋医学の普及で漢方不要論が高まる中、宮内省侍医医師として政府の漢方廃止政策に反対するなど、漢方存続に尽力しています。
「浅田飴」は、浅田のもとで働いていた堀内伊三郎(株式会社浅田飴の創業者)が製法を譲り受け明治20年(1887) に発売。当初、水飴タイプでしたが携帯に不便だったために固形タイプに変更したところ大ヒット商品になったそうです。
『皇国名医伝』は、嘉永五年(1852)に宗伯が著した日本の歴史上の名医を紹介した本で、その中で大化の改新で知られる天智天皇の侍医、藤原永全の祖先は、垂仁天皇の御世に、前漢滅亡の戦乱により中国から逃れてきた劉伯陽という人物で、その孫の春平が景行天皇の御世に中国に派遣され、囲碁を持ち帰ったと言う話が出てきます。
景行天皇は古代日本の英雄、ヤマトタケルの父で、正に神話の時代の話ですが、囲碁伝来に関する出典元は明記されておらず、どの文献から拠ったものかは不明です。ただ、昭和初期に刊行された朝日年鑑には囲碁伝来の一つの説として紹介され、割と知られていたようです。
浅田宗伯の墓は谷中霊園にあります。
墓所:谷中霊園 乙8号 10側
【囲碁史スポット】谷中霊園
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