正親町天皇 |
第107代・後陽成天皇が囲碁の愛好家であった事は紹介しましたが、その祖父である第106代・正親町天皇(おおぎまち)も囲碁好きであったと言われています。
正親町天皇は、弘治3年(1557)父の後奈良天皇崩御に伴い践祚しますが、長引く戦乱により当時、朝廷の財政は逼迫しており、即位後約2年もの間即位の礼を挙げる事が出来ませんでした。
そして永禄3年(1560)になり、ようやく戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けて即位の礼を挙げることが出来たそうです。
その後、本願寺法主・顕如などの献金を受けたほか、永禄11年(1568)に天皇の保護を大義名分に織田信長が上洛すると、その支援により天皇の権威を回復させ、信長と敵対勢力との和議を仲介するなど政治力を発揮していきます。
「本能寺の変」で織田信長が討たれたのは、信長が正親町天皇を退位させようとしたのが原因とする説もありますが、信長は退位に反対していたというはなしもありよくわかっていません。
豊臣政権下でも秀吉の後ろ盾で皇室の権威を高めていった正親町天皇は、天正14年(1586)に、孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して隠退すると、文禄2年(1593)に崩御しています。
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では正親町天皇(坂東玉三郎)と医師・東庵(架空の人物・堺正章)が囲碁を打ちながら語り合うシーンが囲碁関係者の間で話題となりました。実際に天皇に仕えた女官が記した『御湯殿上日記』には、囲碁を行ったとの記録が多く残されています。
元亀4年2月17日、6月4日の日記にも囲碁と記されていますが、その直前の2月13日に室町幕府15代将軍・足利義昭が武田信玄らと呼応して信長を討つために挙兵。4月7日に正親町天皇の勅命によって一旦和議が成立しますが、7月に義昭が再挙兵しています。しかし、この時すでに頼りとしていた武田信玄は無くなっていて、義昭は京都を追放され室町幕府は滅亡しています。まさに激動の時代に宮中にて囲碁が打たれていたのです。
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