後陽成天皇 |
第107代・後陽成天皇は、第106代・正親町天皇の東宮であった誠仁親王の子で 豊臣秀吉が関白を務めていた天正14年(1586)父が亡くなった数ヶ月後に祖父から譲位され即位しています。
在位中は慶長8年(1603)に徳川家康を征夷大将軍に任じ江戸幕府が開かれるなど、長く続いた戦国時代の終焉に大きく関わっています。
歴代天皇の中には囲碁の愛好家も何人かいましたが、後陽成天皇もその中の一人で、公家の日記など当時の宮中の記録には後陽成天皇の囲碁に関する記録が多くみられます。
囲碁自体は関わりないのですが、戦国武将最強の棋力を誇ったと言われる細川幽斎は、関ヶ原の戦いの際に田辺城に籠城し西軍に激しく抵抗していますが、『古今和歌集』の解釈『古今伝授』の唯一の伝承者である幽斎を助けるために後陽成天皇は両軍に勅命を出し開城させています。
また、戦後、家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐために、娘婿の奥平信昌を京都所司代に任じて監視していますが、信昌は本因坊算砂の門人としても知られ、天皇周辺には囲碁と関わりある人物がたくさんいました。
当時の禁裏の様子を記録した言経卿記(山科言経の日記)、慶長日件録(式部少輔 舟橋秀賢の日記)、御湯殿上日記には、慶長8年四月十九日に本因坊算砂・利玄・仙角(算砂の師・仙也の息子)・中村道碩が参内して後陽成天皇の御前にて四局の上覧対局が行われたと記録されています。
征夷大将軍に任じられた徳川家康がお礼のために段取りしたもので、家康の権威を示す目的もあったのでしょうが、天皇自身が囲碁好きであったため実現したとも考えられます。
宮中に参内した算砂は、碁盤と碁石を献上し、禁裏からは巻物が下賜されたそうです。
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