穂積歌子 |
穂積陳重 |
穂積夫妻の墓(谷中霊園 栄一の墓の後方囲いの中) |
「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の長女、歌子は文久3年(1863)に現在の埼玉県深谷市で生まれ、明治15年(1882)に法学者の穂積陳重と結婚しています。
穂積陳重は明治9年(1876)よりイギリス,ドイツ留学で法律学を学び、当時日本で主流だったフランス法に対し、経験主義的、実証主義的なイギリス法を導入。
草創期の日本法学界に多大な影響を与え、民法典(現行民法典)の起草で中心的な役割を果たしています。また英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人に名を連ね、明治21年(1888)には日本初の法学博士の学位を取得しています。
陳重は渋沢家の家憲(家訓)草案の作成を委嘱されるなど渋沢家との関わりが深く、栄一の資産を管理する同族会に陳重、歌子両名とも入っていました。
3男3女をもうけた歌子は「良妻賢母の鑑」と言われ、大日本赤十字社や愛国婦人会の会員や、慈恵委員慈恵会の幹事、出征軍人家族慰問婦人会の理事を務めたほか、歌人としても活躍しています。
穂積歌子と陳重夫妻が囲碁を嗜んでいた記録があります。
昭和2年に伊豆下田で、渋沢栄一が建立に尽力したハリスの記念碑の除幕式が行われ、栄一と、その後継者である敬三と共に歌子も参加していますが、その道中、一泊した修善寺の宿で甥の敬三が栄一の前で同行者と囲碁の対局し、その後に歌子とも対局したいと要望。その時の様子を歌子は次のように語っています。
「敬三さんが伯母さんと一石と云はるゝ。私はこれでも其昔、今の喜多夫人、当時の林文子に定石を習ふたのである。然し、碁にかけては低能と見えて、一向に其甲斐が無く、笊碁の方が却て面白い、などと負惜しみを云ふて、主人の相手をしてよくめくら仕合ひをしたことである。主人は歌子の碁は終始守る一方で少しも戦はず、山をかけて見てもちつともかゝらぬから、至つて面白く無いと云はれたが、外に相手が無い故に毎夜二三石づつは打つたのである。自分ながらこんなに保守一方で少しも発展が出来ず、大石が殺されることは無いかはり、どの石も萎縮して終に負けてしまふ、碁も己の性質によく似るもの、成程これでは面白くも何とも無いと思ふたのである。然し敬三さんとは一石打つて見たいが、何しろ二・三十年盤に向ふたことが無いのであるから一寸手が出せぬ。其中林先生(栄一の主治医)は先刻買ふて来られた木地の丸盆に大人(栄一)の揮毫を願はれたら、直ぐに詩を御書き遊ばした・・・」
栄一は月に二・三回、自宅で方円社の村瀬秀甫や二代目中川亀三郎らに囲碁を教わっていた時期があり、歌子も囲碁にふれあう機会があったと思われますが、歌子が教わっていた喜多文子(林文子)が初段になったのは明治24年(1891)15歳の時で、この時期、歌子はすでに穂積家へ嫁ぎ子供もいました。
おそらく喜多文子が穂積家を訪れていたでしょうから、囲碁の指導は夫婦で受けていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
穂積陳重は大正15年(1926)、歌子は昭和7年(1932)に亡くなり、墓は谷中霊園の渋沢家の墓の一画にあります。
0 件のコメント:
コメントを投稿