渋沢家の墓(谷中霊園 栄一の墓の隣) |
墓誌 |
渋沢栄一の嫡男、渋沢篤二が妻子を置いて新橋の芸者のもとへ転がり込んだ事から廃嫡となり、代わりに栄一の後継者になったのが篤二の息子の渋沢敬三です。
渋沢敬三はもともと動物学者を志していましたが、栄一に懇願されて後継者になったそうです。
敬三は東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行に入行しロンドン支店などに勤務。私生活では岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚しています。
昭和元年(1926)に第一銀行へ移り、昭和16年(1941)に副頭取へ就任すると、翌年には日本銀行副総裁となり、昭和19年(1944)に第16代日本銀行総裁に就任。
終戦直後の幣原内閣では大蔵大臣として入閣し、預金封鎖、新円切り替え、財産税導入など、戦後のインフレ対策の陣頭指揮をとっていきますが、GHQによる財閥解体、および公職追放を受けて辞任し、追放解除後は、経済団体連合会相談役、国際電信電話(現KDDI)社長、文化放送社長などとして活躍しています。
敬三は金融、財界人として活躍する一方、民俗学者としても知られていました。柳田國男との出会いがきっかけと言われ、動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集し、自宅の車庫の屋根裏に私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設。その資料は国に寄贈され、現在の大阪吹田の国立民族学博物館収蔵品の母体となっています。
また、静岡県沼津市で漁村の400年にわたる歴史が記された古文書を発見し発表するなど漁業史の分野で活躍する一方、多くの民俗学者をパトロンとして支援しています。
民俗学に力を入れる敬三に対し「二足のわらじ」「学問ばかりやっている」と非難めいた声があがりますが、敬三は「皆は碁を打ったり、ゴルフをしたりして結構時間を使っているんだから、文句はないじゃないか」と反論したと伝えられています。
ただ、敬三が囲碁をしていなかったように聞こえますが、熱中していた時期もあったと言います。
昭和2年に伊豆下田で、渋沢栄一が建立に尽力したハリスの記念碑の除幕式が行われ、栄一、敬三のほか、栄一の長女、歌子らが参加していますが、当時の様子を歌子が次のように語っています。
「敬三さんは昨年の夏から碁を始められ、縦であるか横であるかは知らぬが、なかなかお好きである。先刻も階下の室で近藤を相手に打っていたが、食事が済むと碁盤を取りよせ、岡田さんを敵手にして(栄一の前で)御前仕合をはじめられた。」
敬三は好きなことは徹底してやる性格だったのかもしれません。
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