渋沢家の墓(谷中霊園 栄一の墓の隣) |
墓誌 |
「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の次男、渋沢篤二は、栄一の後継者として渋澤倉庫取締役会長などを歴任しますが、妻子を置いて新橋の芸者のもとへ転がり込み、スキャンダルが新聞で騒動となったため同族会により廃嫡、同時に渋沢倉庫の取締役も退任しています。そして息子の渋沢敬三が栄一の後継者となります。
多くの会社経営に関わり多額の資産を築いた栄一は、家法により渋沢同族会をつくり、これらを保管・運営することにしていたため、後継者問題は同族会で決定する事になっていたのですが、栄一自身も「英雄色を好む」という言葉があるように、本妻と三人の妾がいたほか、それ以外にも愛人が大勢いて一説には子供は50人とも100人ともいたと言われています。同族会が出来たのも、栄一の子供がどこにいるかすべて把握しきれないため、後々もめることが無いよう、相続権のある正当な一族を整理する必要があったからと言われ、栄一に篤二を非難する資格があるのかという問題はさておき、スキャンダルが世間に広まったため、廃嫡はやむを得なかったのでしょう。
篤二の放蕩生活は偉大なる父の後継者としての重圧から逃げるためとも言われ、廃嫡後は水を得た魚のように犬のブリーダーなど趣味の世界に没頭し、晩年になりようやく渋澤倉庫の会社経営に復帰しています。
篤二はブリーダーのほかに、義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティングなど多くの趣味を持っていて、いずれも玄人はだしだったと言われていますが、囲碁については確認できませんでした。
しかし篤二がまだ栄一の後継者であった明治38年に、本因坊秀栄が最大の支援者であった高田商会の高田民子と袂を分かち、生活が困窮していたために支援組織の日本囲碁会が設立されていますが、篤二は父・栄一と共に名誉会員になっていますので、囲碁界ともつながりはあったようです。
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