2021年10月16日土曜日

細川幽斎



  古代中国で生まれ日本へ伝わった囲碁は、当初貴族や僧侶に広まり、やがて台頭してきた武士の間にも普及。戦乱の世の群雄割拠する戦国武将にも様々な囲碁の逸話が残されていますが、その中でも戦国武将最強の棋力を誇ったと言われているのが肥後熊本藩細川家の礎を造った細川幽斎です。

 細川幽斎こと細川藤孝は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えていましたが、義輝が三好三人衆に討たれると、明智光秀を通じて織田信長の協力を求め、15代将軍・足利義昭を擁立します。

 その義昭が信長と敵対して京都を追われると、藤孝は信長に仕え、名字を長岡に改めて丹後国宮津11万石の大名になっています。

 信長との間を取り持った明智光秀との関係は深く、嫡男忠興の正妻に光秀の娘、ガラシャを迎えていますが、本能寺の変においては、光秀の再三の加勢要請を断り、家督を忠興に譲り剃髪して幽斎と名乗っています。

 その後、豊臣秀吉に重用された幽斎は九州平定などで活躍。秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年に家康の会津征伐へ息子の忠興が参加する中、石田三成が挙兵して関ヶ原の戦へと発展していきますが、留守を守る幽斎は田辺城に籠城して西軍に激しく抵抗。最後は後陽成天皇の仲介により投降したものの、西軍1万5000の包囲部隊は関ヶ原の戦本戦に間に合わなかったといいます。なお、幽斎が籠城していた頃、大阪の屋敷では忠興の妻、細川ガラシャが、西軍の人質になるのを拒み非業の死を遂げています。

 関ヶ原の戦い後、長岡姓から元の姓に戻した細川家は、忠興が小倉藩39万9000石、その息子の忠利の代には熊本藩54万石に封じられ、幕末まで大大名として存続していきます。

 細川幽斎は戦国武将としてでなく、当時の一流文化人としての顔も持っていました。

 特に和歌に関しては、藤原定家の流れを汲む二条流伝承者・三条西実枝から、唯一、秘伝の古今伝授を伝承し、近世歌学を大成させたことで知られています。

 囲碁に関してもかなり実力者であったと言われ、多くの逸話が残されています。

 元亀2年の厳島神社の神官の記録の中に、京都の吉田神社の神官を招いた際、碁打ちの専哉と長岡という人物が同行し、碁会が開かれたという記述があります。

 専哉は本因坊算砂の師匠と言われる仙也の事と思われ、長岡とは細川幽斎ではないかと言われています。吉田神社では当時、度々碁会が行われていて幽斎も参加していたようです。

 江戸幕府成立以前、徳川家康は京で頻繁に碁会を開催していますが、幽斎は家康の碁会にほとんど出席し、自らも家康に劣らず多くの碁会を開催しています。囲碁の愛好家であった家康や幽斎は、碁会を通じて情報収集や有力者との関係強化を図っていましたが、それだけ当時の武将たちには囲碁の愛好家が多かったと言う事のようです。

 嫡男忠興とガラシャが祝言を上げた当時の居城、龍造寺城でも、度々囲碁の対局が行われたとの記録が残されています。

 幽斎はある日、家康やほかの武将達と共に、伏見から船で大阪の前田利家の館へ向かっていましたが、その船中で幽斎と家康が囲碁を囲み、浅野長政、福島正則、黒田如水、加藤清正ら、後に関ヶ原の戦いを共に戦う面々がそれを見ていましたが、そこへ石田三成がひょっこり顔を出し一同がすっかり興醒めしたという話も残っています。

 幽斎は晩年京都で暮らし、慶長15年に77歳で亡くなっていますが、徳川将軍家では幽斎の死を痛み、没後三日間にわたり囲碁・将棋を差し止めたと記録されています。そして幽斎の遺言により、家康へ愛用の盤石が譲られています。また、家康の跡を継いだ徳川秀忠も幽斎の夫人が没した際、囲碁・将棋を差し止めたという記述もあります。


 最期に幽斎の詠んだ囲碁の歌がいくつかあるので紹介します。

「しろくろとあらそふ碁洞劫の浦 浪より外にうつものはなし」(西遊雑紀)

「仙人のすみかとやいはんみだれ碁の 音してふくる灯のかげ」(衆妙集)

「星合の空もにたりとみだれ碁の 石川の水にかげをならべて」(衆妙集)


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