德川慶久 |
德川慶久(左)と實枝子(右)夫妻の墓 |
囲碁の愛好家としても知られる江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が、明治35年(1902)に公爵を授けられ興した「徳川慶喜家」の二代目である德川慶久(よしひさ)は、明治17年(1884)に慶喜の七男として静岡で生まれます。
母は慶喜の側室、新村信で、初名は久(ひさし)。慶喜は子の多くが幼くして亡くなり、それを避けるために生まれた子供を他家に預けて育てたそうで、久も宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛に預けられて育ちます。そして明治29年(1896)学習院へ入学後に徳川慶喜家の継嗣となり父の偏諱をとって慶久と改名しています。
明治39年(1906)に学習院高等科を卒業した慶久は、明治41年(1908)に皇族有栖川宮最後の王女・實枝子と結婚し、慶子、喜久子、慶光の三人の子をもうけます。
明治43年(1910)には東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に貴族院議員となっています。
父の慶喜は、写真や囲碁など多趣味で知られていましたが、慶久もそれを受け継ぎ、柔道二段、その他に、ビリヤード、鉄砲、乗馬、ゴルフ、油絵などで才能を発揮しています。
中でも囲碁はアマ二段とも言われる実力だったそうで、大正9年に刊行された「現代名士人格と修養」には慶久について、「彼は囲碁に於いては天才と云はれ、優に初段の手並を示し華胄界(かちゅうかい・貴族社会)稀にみる名人である。」と記されています。
二枚目で、「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていた慶久は、第一銀行(現みずほ銀行)取締役、華族世襲財産審議会議長などを歴任し、将来の内閣総理大臣候補に名が上がるほど期待されていましたが、大正11年(1922)に、東京府東京市小石川区第六天町(文京区小日向)の本邸で急死。37歳という若さでした。
死因は脳溢血とされていますが、眠れないために催眠剤を飲んだ際に量を間違えた事故死したという説や、催眠剤による自殺という説も囁かれています。
德川慶久の墓は父慶喜の墓もある谷中霊園の「徳川慶喜家」の墓所にあります。墓所は中央に慶喜夫妻の墓が配置されていますが、向かって右手に慶久と實枝子の墓があります。
余談ですが實枝子が生まれた有栖川宮は、四親王家の一つで、江戸時代初期に成立した際は高松宮を名乗っていました。
實枝子が嫁いだ後、当主の兄や父が亡くなったため有栖川宮は絶家となりますが、伝統ある名門宮家の廃絶を憂慮した大正天皇の意向により,第三皇子・宣仁親王が、有栖川宮がかつて名乗っていた高松宮を創設。慶久と實枝子の娘・喜久子と結婚し有栖川宮の祭祀を継承しています。
書道・歌道の師範を務めてきた有栖川宮は、霊元天皇の書風を受け継いだ「有栖川流」と呼ばれる書道の流派を継承してきましたが、その唯一の継承者となった實枝子は、流派を絶やさないために親王妃となる喜久子に伝授。
しかし高松宮には子供が生まれなかったため、昭和62年(1987)に宣仁親王、また平成16年(2004)には喜久子が薨去し宮家は廃絶。有栖川流は喜久子により秋篠宮文仁親王と常陸宮華子妃へ伝授され継承されたそうです。
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