本因坊丈策の墓(本妙寺) |
十一世元丈の実子である十三世本因坊丈策は、研究熱心な学者肌の棋士で理にかなった碁を打ったと言われていますが、本来六段くらいまでの棋力しかなかったそうです。
それでも師匠・十二世丈和が後継者としたのは、自分を後継者にしてくれた師匠・元丈の恩に報いるためだったと言われています。
天保9年(1838)に丈和の跡目となった丈策は、翌年に策略により名人碁所に登り詰めたと言われる師匠が他の家元との確執もあり引退したため家督を継承。
さらに次の年には他三家の推薦により七段へと昇段しますが、丈和は丈策に七段は望むなと言っていたため、しばらく口を聞いてもらえなかったと言います。
また同年、土屋秀和を跡目とし、これも七段に進めています。
丈和の引退にともない井上幻庵因碩が名人碁所の願書を提出すると反対する丈策は秀和を立てて争碁を申し出ています。
当初幻庵は当主である丈和との対局を主張しますが棋力で劣っている丈策が病を理由に固辞し、各家元の話し合いで幻庵と秀和の四番の争碁が決定。秀和は先番で勝ち、幻庵は名人願を取り下げることとなります。
丈策は病弱だったものの御城碁を弘化3年(1846)まで勤めた一方、当時の門下には秀和の他、水谷琢順、宮重策全、白木助左衛門ら逸材が多くいて、上野車坂下の道場は大いに賑っていたと言います。
本因坊丈策は弘化4年(1847)に45歳で亡くなり、歴代本因坊が眠る本妙寺へ葬られています。
なお、本妙寺の墓石には六世知伯、七世秀伯の名も刻まれていますが、本妙寺が明治期に現在地へ移転した際に合葬されたのかもしれません。
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