本因坊秀和 |
本因坊秀和の墓(本妙寺) |
十四世本因坊秀和は文政3年(1820)現在の伊豆市小下田出身の土屋家に生まれ、幼名は俊平、後に恒太郎と名乗っています。
甲斐武田氏の重臣・土屋昌恒の末裔と言われる小下田の土屋家は、武田家滅亡後、ここに落ち延びたと伝えられています。
土屋家の分家、土屋和三郎の子である俊平は、幼い頃より父に囲碁を教わりますが、9歳の時に父に連れられ三島のお祭りに出かけた際に沼津に住む12歳の少年と対局して四子で負けたため、腹を立てた父により、そのまま江戸へ連れていかれ、同郷の本因坊丈和に預けられてしまいます。
そして家族に激しく非難された和三郎により連れ戻されますが、その帰途、再び沼津で少年と対局したところ、今度は互先で打ち分け、短期間での成長に気を良くした父親は家族を説得し、正式に丈和の門下にしてもらったと言います。
土屋恒太郎と名を改め、同い年で師匠丈和の長男である戸谷梅太郎と共に切磋琢磨しながら四段まで同時昇段を果たすと、13歳の時に二人は剃髪し恒太郎は土屋秀和、梅太郎は戸谷道和と名を改めます。
天保9年(1838)名人碁所であった丈和の引退にともない本因坊丈策が家督を継承しますが、その際に秀和が跡目に選ばれています。この時、秀和の良きライバルであった道和は眼病にかかり、治療に専念するため囲碁界を離れていました。
天保11年、丈和の引退により空席となっていた名人碁所への就任願いを井上幻庵因碩が幕府に提出すると、それに反対した丈策により争碁の相手として指名された秀和は、第1局で幻庵を敗り名人碁所断念に追い込みます。
嘉永元年(1848)、前年に丈策、丈和が相次いで亡くなり十四世本因坊となった秀和は、安田秀策を跡目に定め、安政6年(1859)には幕府へ名人碁所就任願いを出しますが、時はすでに幕末の争乱期であり「内憂外患の多忙」を理由に却下されます。
文久2年(1862)、期待をかけていた跡目秀策がコレラに感染して亡くなり、秀和は再跡目として秀策亡き後、門下で一番の実力を誇った村瀬秀甫をと考えますが、秀甫を嫌う丈和の未亡人が反対したため断念。長男の秀悦を跡目に定めています。
明治維新後に家元制度は崩壊し、明治2年(1869)に経済的な理由から本所相生町の邸宅を借家としますが、その借家が火元となり邸宅が全焼し、類焼を免れた土蔵での雨露をしのぐ生活を強いられます。
見かねた門人の伊藤松和が再建のための援助を申し出ますが、延焼で周りの家にも迷惑をかけている中で自分だけが早々に再建する訳にはいかないと辞退。
さらに明治4年(1871)には家禄奉還となり、益々経済的に困窮していく中、失意の内に明治6年(1873)に亡くなっています。
秀和の死後、家督は長男の秀悦が継ぎますが、その後、次男の秀栄が十七・十九世、三男の秀元は十六・二十世と明治以降の本因坊家は数代にわたり秀和の息子たちがを継承していきます。
秀和は名人の実力がありながら名人になれなかった元丈、知得、幻庵因碩と共に囲碁四哲と称されているほか、秀和と弟子の秀策、秀甫は江戸末期の最高峰として三秀とも呼ばれています。
巣鴨の本妙寺にある歴代本因坊の墓は、現在、秀和の子孫である土屋家が管理しているそうです。
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