戦国時代末期に登場した奇抜な風体や行動を行う人物を歌舞伎者と言いましたが、その代表的人物で、隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」や、それを原作とした漫画「花の慶次」で有名となった戦国武将・前田慶次(慶次郎)こと前田利益には、囲碁に関する逸話が残されています。
、慶次は織田信長の重臣・滝川一益の一族出身で信長の家臣である荒子城主・前田利久の養子となります。
利久は前田家の当主でしたが、信長は病弱な利久に武将としての力量は無いと隠居を命じ、代わりに弟の前田利家を当主に据えます。
利家に仕えた慶次は、小牧・長久手の戦い等で活躍していきますが、やがて前田家を出奔して京都で浪人生活を送ります。その理由は定かではありませんが利家と仲が悪かったためとか、養父・利久が亡くなったためとも言われています。
京都では古田織部等、多くの文人と交流を結び、慶次主催の連歌会に細川幽斎が出席したという記録も残っていますが、上杉景勝や直江兼続とも親交を結んでいた慶次は、やがて上杉家へ仕官し関ケ原の戦いでも活躍します。
慶次の晩年については資料が乏しく諸説ありますが、一説には上杉家の移封にともない米沢へ居を構え、そこで和歌や連歌を詠むなど悠悠自適の生活を送って慶長10年(1605)[慶長17年という説も]に亡くなったという話もあります。亡くなったのは70歳頃だったそうです。
前田慶次が上杉家へ仕官して間もない頃、同輩の一人が酒宴で「林泉寺の和尚が傲慢なため一発殴ってやりたい」と愚痴をこぼしているのを聞きます。
林泉寺は上杉家の菩提寺であり、住職が一家臣の事など相手にしていられないという事だったのでしょうが、それを聞いた慶次は「自分が和尚の顔を殴ってきてやろう」と言います。
やがて巡礼に仮装し寺を訪れた慶次は和尚と雑談してすっかり打ち解け、客殿に碁盤があるのを見つけると対局する事とします。この時、慶次は負けた方が「しっぺい」(デコピン)を当てられるという罰ゲームを提案し和尚も承諾します。
一局目は、慶次はわざと負けて和尚が爪でちょこんとしっぺいを慶次に当てます。二局目は慶次が勝ちますが「和尚様にしっぺいを当てるなど恐れ多い」と辞退。それに対し和尚が「遠慮は無用」と言ったので「それならば」と和尚の眉間を思いきり殴り、白目をむいて気を失っている和尚を見て大笑いしながら立ち去ったそうです。
史実かどうかは別として歌舞伎者の慶次らしいエピソードと言えます。
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