本因坊丈和 |
本因坊丈和の墓(本妙寺) |
十二世本因坊丈和は「強力無双」と呼ばれる激しい力碁を特徴とし、江戸時代に登場した三人の碁聖の中で、前聖の道策に対し秀策と共に後聖と称され讃えられています。現在では丈和こそ史上最強棋士と評価する人々も多くいます。
丈和の出身地は定かでは無く、幕府へは武州本庄(埼玉県本庄市)の豪商・戸谷半兵衛の一族として届出されていますが、現在では伊豆木負村(沼津市西浦木負)の魚の仲買人・葛野七右衛門の次男として生まれたとする説が有力となっています。
丈和は一説には幼いときに本因坊烈元の門下になっていたとも言われていますが、その後、本庄の戸谷半兵衛のもとで丁稚奉公します。
半兵衛は名字帯刀を許される豪商である一方、俳句の一派をなし、小林一茶などを支援する一流文化人として知られていた人物で、丈和が14歳の頃に囲碁を学ばせるため江戸日本橋の支店へ転勤させ本因坊家へ通わせます。
丈和が半兵衛の身内として幕府へ届出されたのは、頭角を現していく丈和に相応しい格式を与えるために半兵衛が協力したと考えられ、丈和は本因坊家当主となった後も半兵衛と交流を続けています。
丈和の先代、十一世本因坊元丈は奥貫智策を跡目にと考えていましたが、智策が文化9年(1812)に27歳で夭逝したため、丈和が文政2年(1819)に跡目に選ばれます。
その後33歳で六段に昇段し、文政10年(1827)40歳の時に七段に進むと、元丈の引退にともない十二世本因坊を継承、翌年八段に昇段します。
天保2年(1831)に丈和は名人碁所となりますが、これは「天保の内訌」と呼ばれる陰謀によるものと言われ、後に禍根を残す結果となります。
その経緯ですが、文政11年(1828)に丈和が名人碁所願を提出し家元会議が行われたものの、安井知得仙知が時期尚早であると反対し争碁が打たれる事になります。
しかし仙知の病気などで日程がなかなか決まらず、結局、2~3年後に井上幻庵因碩が代わって争碁を行う事になりますが、天保2年(1831)対局が行われる前に突如丈和が名人碁所に任命されてしまいます。
急な任命の理由は不明ですが、丈和から八段昇段の約束を取り付けた林元美が出身である水戸藩の徳川斉昭(別人という説もあり)を通じて寺社奉行に働きかけたためとも言われています。
丈和は囲碁界の頂点に立ち上野車坂下の道場で多くの人材を育てていきますが、一方で林元美との約束を守らず他の家元すべてと対立し、各家元はなんとか丈和を名人碁所の座から引きずり落とそうと考えていましたが、名人碁所は御止碁といって御城碁での対局を回避できたため、なかなかその機会がありませんでした。
そうした中、天保6年(1835)に老中松平周防守(浜田藩)により碁会が開かれ丈和も参加する事となります。開催の背景には、碁会を取り仕切る国家老・岡田頼母が安井門下の二段で家元の意向を汲み取ったことと、当時浜田藩の密貿易事件(竹島事件)が露見し、その対応のために頼母が江戸へ赴く口実として碁会が利用されたと考えられています。
様々な思惑が交差して行われた「松平家碁会」ですが、その組み合わせは丈和も含め御城碁でも実現できない様な豪華なもので、江戸時代最大の碁会とも評価されています。
幻庵因碩は丈和を名人の座から引きずり下ろすため成長著しい弟子の赤星因徹を挑ませ、もし赤星が勝てば丈和に名人の資格無しと公儀に訴え出るつもりでした。
注目の対局は当初、赤星の優勢で展開していきますが、丈和は後世に語り継がれる「丈和の三妙手」を繰り出し赤星を下します。赤星は対局後に血を吐き二か月後に亡くなったため、この一局は「吐血の局」と呼ばれています。
窮地を脱した丈和ですが、この後、林元美が八段昇段の約束を破ったことを訴え出た事もあり天保10年(1839)に碁所を返上。先代元丈の子である丈策に家督を譲り引退。その後は後進の指導にあたり弘化4年(1847)に亡くなっています。
その実力により江戸時代には道策の前聖に対して後聖と呼ばれていた丈和ですが、明治期に入り娘婿でもある本因坊秀策の評価が上がっていく一方、名人就任に関する一連の騒動により丈和の評価が落ちていき後聖の名は秀策に奪われてしまいます。
しかし現在では丈和が幻庵と争碁を打とうとしていた事を示す資料が発見された事もあり再評価され、丈和と秀策双方ともに後聖と称されるようになってきました。
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