2021年7月10日土曜日

大岡忠相

  八代将軍・徳川吉宗による享保の改革を支え、名町奉行として知られた大岡越前守忠相は、町奉行退任後に囲碁界を統括する寺社奉行に就任し囲碁界とも関わっていきます。

 延宝5年(1677)旗本・大岡忠高(1700石)の四男として江戸に生まれた忠相は、貞享3年(1686)同族の旗本・大岡忠真(1920石)の養子となり元禄13年(1700)に家督を相続。正徳2年(1712)には遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任しています。

 俗説では山田奉行時代に幕領と接する紀州藩との境界を巡る係争を公正に裁き当時紀州藩主であった徳川吉宗の目に留まったと言われていますが、実際には山田奉行に領地問題を裁く権限は無く、後世に創作された話しではないかと考えられています。

 その後、普請奉行を経て吉宗が第八代将軍となった翌年の享保二年(1717)に江戸町奉行に就任します。

 江戸町奉行と言えば江戸府内の武家・寺社を除く庶民の司法(裁判所)および警察を司るというイメージがありますが、その他に行政も行い、現在の都知事に近い役職だったそうです。

 忠相は防火体制強化のため「いろは四十七組」の町火消の創設や瓦葺屋根や土蔵の普及に努めた他、医療制度の充実のため小石川養生所の設立にも尽力していきます。

 なお、俗に「大岡裁き」と称される忠相の裁判における見事な裁定は「大岡政談」として歌舞伎・浄瑠璃などの題材となっていますが、実際に忠相が裁いたのは「白子屋お熊事件」ぐらいで、そのほとんどが他の奉行や外国の話しがもとになっているそうです。

 元文元年(1736)忠相は約20年間務めた町奉行から寺社奉行へ転任しますが、本来大名が務める寺社奉行に旗本の忠相が就任するのは異例の事でした。寺社奉行就任は形の上では栄転と言えますが、実質的には幕政への影響力が小さい「名誉職」とも言えるポストであり、その背景として忠相が江戸の物価安定のために金貨と銀貨の相場に介入して両替商と対立したため、事態収拾のために配置転換されたというのが真相のようです。

 寺社奉行は四名前後が月ごとの輪番で務めていて公務は自らの屋敷で行っていました。また武家の礼式を管理する奏者番を兼任するのが一般的で、江戸城には寺社奉行の詰め所は無く、奏者番の詰め所を使用することが慣例となっていました。ところが異例の出世を遂げた事への妬みなのか、大名では無い忠相は他の大名から奏者番の詰め所への立ち入りを拒否されていたそうで、数年経ってようやく忠相の置かれた境遇に気が付いた吉宗により寺社奉行の詰め所が設置され、忠相は三河国西大平(岡崎市)1万石の大名へ引き立てられています。

 寺社奉行は碁所、将棋所を管轄していますが、忠相が奉行となった時期は家元筆頭格の本因坊家で当主が相次いで二十代で亡くなり囲碁界全体が低迷し「暗雲の時代」と呼ばれていました。一方で将棋界は伊藤宗看が二十代で名人になるなど隆盛を極めていたそうです。

 今でこそ囲碁と将棋は同列に扱われていますが江戸時代は囲碁の序列が将棋より上位と位置付けられていたため、元文2年(1737)伊藤宗看は序列の変更を幕府へ申し立てる「碁将棋名順訴訟事件」を起こします。

 これに対し囲碁界は反発しますが、寺社奉行の井上河内守と松平紀伊守は宗看の門人であり申し立ては受け入れられる情勢だったそうです。しかし裁定を下すはずだった井上河内守が急死した事で対応を引き継いだ忠相は、序列は今までどおりという裁定を下しています。

 別に忠相が囲碁好きという事ではなく、享保の改革が徳川家康のころの政治を理想としていたため、碁将棋の席次は家康公が取り決めたのであるから変える必要は無いという判断だったようです。いずれにしても、忠相の裁定により囲碁界は面目を保たれ、やがて名人察元の登場により活性化していくことになります。

 寺社奉行の屋敷は、御城碁の前の下打ちなどで会場として使われる事もよくあったそうです。元文4年(1739)に本因坊秀伯が七段上手への昇進を求めた際、林因長門入と井上春碩因碩が反対して秀伯と因碩の間で争碁が行われますが、元文5年(1740)1月18日に行われた第四局は大岡邸で行われています。

 また寛保3年(1743)に林因長門入が名人碁所就位願いを出した際は、秀伯の跡を継いだ本因坊伯元と安井仙知が反対したため、忠相は争碁による決着を裁定しますが、この時は門入が願いを取り下げ争碁は行われませんでした。

 寛延4年(1751)大御所となっていた吉宗が死去すると、忠相は葬儀の担当者を務めていますが、その後病のため寺社奉行を辞任し翌年に亡くなっています。享年75。




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