2021年6月9日水曜日

天文方五代目 渋川則休

 

渋川則休の墓

墓石の側面。六蔵は則休の通称

 江戸幕府天文方の五代目・渋川則休(のりよし)は、第三代天文方渋川敬尹の嫡男で、囲碁家元・三世安井知哲の孫にあたります。
 享保2年(1717)に江戸で生まれ、10歳の時に父が急死、則休はまだ若すぎるため渋川春海の高弟・遠藤盛俊の門人、渋川敬也が家督と天文方を継承し、則休はその養子となります。ところが養父の敬也も一年後に亡くなったため、則休はわずか11歳で天文方に就任しています。
 延享3年(1746)徳川吉宗は貞享暦の改暦のため則休を改暦御用に任じますが、則休は暦学未熟を理由に固辞。
 幕府は則休と共に天文学者の西川正休を天文方に任じ則休の指導に当たらせる一方、天文方の管轄を寺社奉行から若年寄に改めるなど則休を支援する姿勢を整えた上で、改めて則休と西川に改暦命令を出します。
 寛延3年(1750)2月27日に上洛した二人は京都にて改暦のための観測事業を行うとともに、陰陽頭土御門泰邦との協議を開始。しかし桜町上皇崩御のため作業は中断され、江戸に戻っていた則休は、寛延3年(1750)8月に病のため34歳で急逝。家督は弟の渋川光洪が継承しています。
 墓は品川区北品川の東海寺大山墓地にある渋川家の墓所。戒名「真涼院天山紹心居士」。墓石の側面には「天文博士 渋川六蔵墓」と刻まれていますが六蔵は則休の通称です。


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