渋川光洪の墓 |
墓石の裏側 |
天文方の六代目渋川光洪(みつひろ)は五代目渋川則休の弟で、囲碁家元・三世安井知哲の孫。通称孫次郎・図書といいます。
寛延3年(1750)に兄の急逝に伴い天文方の地位を継ぐと、兄の遺志を継いで西川正休とともに改暦のために上洛します。
しかし、改暦を命じた徳川吉宗が亡くなり、その混乱に乗じて陰陽頭・土御門泰邦が西川を京から追放して改暦の主導権を握ってしまいます。
後ろ盾を失った光洪は泰邦に屈し、泰邦主導で作られた宝暦暦について泰邦の門人という扱いで署名する事となります。
子供がいなかった光洪は、天文学とは無縁な家から甥にあたる渋川正清を養子に迎え明和8年(1771)に逝去。天文方渋川家は明治まで続いていきますが、囲碁家元安井家の血筋はここで途絶えています。渋川光洪の戒名「天真院春室紹夢居士」。
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