2021年6月8日火曜日

初代天文方 渋川春海

 

渋川春海の墓(中央と左の2基)東海寺大山墓地

天元の局(二世算哲VS本因坊道策)30手まで

 天体観測や暦の研究を行う江戸幕府「天文方」の初代である渋川春海は、寛永16年(1639)に囲碁家元の安井家・一世安井算哲の長子として京都で生まれます。

 慶安5年(1652)父の死により二世安井算哲となりますが、当時はまだ13歳であったため、安井家は一世算哲の弟子で養子の安井算知が跡を継いでいます。

 一説には安井家の家督は二世算哲が継ぎ、算知は別家を興したものの、囲碁の家元制度確立に伴い算知が家督を継いだ形に変化したとも言われています。

 二世安井算哲は万治2年(1659)21歳で御城碁に初出仕し活躍。特に寛文10年(1670)の御城碁では本因坊道策との対局において算哲が初手天元を打ち、「天元の局」と称される囲碁史に残る一局として知られています。

 二世算哲は、囲碁だけでなく算術、暦法、天文暦学、神道などにも精通していました。

 当時、日本で使われていた「宣明暦」は800年前に唐から伝わったもので、この頃はかなりの誤差が生じていたため、算哲は中国の新しい暦「授時暦」を基に幾度か失敗を繰り返しながら独自の観測データによる修正を加え、日本初の国産暦「貞享暦」を完成させています。

 大和暦は朝廷により当時の元号から「貞享暦」と命名され採用。この功績により算哲は、貞享元年(1685)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ碁方を辞任。名前を渋川春海と改めます。

 安井氏は清和天皇の流れを汲む河内守護の畠山氏の一族で、河内国渋川郡を領有し渋川氏を名乗っていましたが、後に播磨国の安井郷に移封され安井氏へと姓を変えていますから、渋川春海は先祖の姓に戻したという事なのです。

 渋川春海は、ずば抜けた天才という訳ではなく、当時、囲碁界においては碁聖と呼ばれた本因坊道策の登場によりNO1にはなれず、算術では関孝和という天才がいました。

 そんな中で春海が名を残す事が出来たのは政治力によるもので、御城碁を通じ幅広い人脈を持っていた春海を、徳川家光の弟・保科正之や水戸藩の水戸光圀など、多くの有力者が支援していました。

 天文方となった春海は拝領屋敷に天文台を設置し観測を続けながら暮らし、その後、嫡男の昔尹に天文方の地位を譲っていますが、正徳5年(1715)に昔尹は急死し、失意のうちに数ヶ月後に春海自身も亡くなっています。

 東京都品川区の東海寺の大山墓地には天文方・渋川家歴代の墓所があり、渋川春海もそこに眠っています。

 春海の墓は、亡くなった当時に建立されたものと、明治40年(1907)に改暦の功績により従四位が贈位された際に建立された二基の墓石があります。

 どちらも戒名「本虚院透雲紹徹居士」と刻まれていますが、新しい墓石には側面に「贈従四位 渋川助左衛門源春海」と刻まれていました。「助左衛門」は春海の通称で、源姓を名乗っているのは、安井氏が源氏の畠山氏の末裔であるためです。

 渋川春海の活躍は、春海を主人公にした冲方 丁の小説「天地明察」が第7回本屋大賞(2010)を受賞、後に映画化され広く知られるようになります。そして平成24年(2012)には日本棋院の第9回囲碁殿堂入りしています。


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