本因坊秀甫の墓に合葬された元丈 |
十一世本因坊元丈は本因坊烈元門下で八段準名人。元の名は宮重楽山といいました。
安永4年(1775)御三卿の清水家物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれ、寛政6年(1794)には四段となります。当時、烈元は楽山より年下の河野元虎を跡目候補としていましたが、寛政7年(1795)に元虎が亡くなり、寛政10年(1798)五段で楽山が跡目になり元丈と名乗ります。
一歳下の安井知得仙知との間には約80局に及ぶ棋譜が残されていて、その実力はほぼ互角。生涯のライバルとして切磋琢磨していきます。
元丈の棋風は厚く打って攻めを得意としたのに対し、仙知は「いぶし銀」と評される堅実でシノギを得意とし、対照的な二人の天才の登場で囲碁界は大いに盛り上がりますが、共に相手をリスペクトし名人碁所を巡り争うことはなく、双方とも名人の技量がありながら名人とならなかった「囲碁四哲」の一人に数えられています。
文化元年(1804)仙知と共に七段上手となり、文化5年(1808)に烈元が亡くなると翌年に11世本因坊を継承。文化11年(1814)には知得と同時に八段準名人に昇段します。
元丈には跡目候補として奥貫智策がいましたが、智策は文化9年(1812)に亡くなり、文政2年(1819)に戸谷丈和を跡目とします。文政10年(1827)丈和に家督を譲り隠居してると、「天保の内訌」と呼ばれる丈和の名人就位運動にも関わることもなく悠悠自適に余生を送っています。
巣鴨本妙寺の歴代本因坊の墓所には十八世秀甫が葬られた村瀬家の墓石に元丈の名も刻まれている事から本妙寺が明治43年(1910)に現在地へ移転した際に合葬されたと考えられます。
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