保科正之は二代将軍徳川秀忠の四男で三代将軍家光の異母弟でしたが、秀忠は庶子である正之の誕生を正室・お江の方に知られるのを恐れ、事実を伏せたまま正之を武田信玄の次女である見性院に預けています。
見性院に養育された正之は、その後、元武田家家臣の信濃高遠藩3万石藩主・保科正光の養子となります。
正光は親類から跡継ぎとして迎えていた養子を廃嫡し、正之を嫡子として育て寛永8年(1631)に亡くなります。そして家督を継いだ正之に対し、実父の秀忠は死ぬまで親子としての対面をすることはなかったと言います。
秀忠が亡くなった後、兄の将軍家光は正之の存在を初めて知りますが、すぐ下の弟、駿河大納言忠長と対立していた家光はすぐに対面せず距離を置き様子を見ます。しかし、正之は将軍の弟として驕ることなく、あくまで家臣として家光に接し、そんな正之を気に入った家光は側近として重用し、山形20万石、その後会津23万石へと加増転封。会津藩は実質的に御三家に匹敵する大藩となります。
家光は死の間際に正之を呼び、まだ11歳であった息子家綱の後見を頼んでいます。そして正之は家光の遺言どおり家綱を補佐し幕政に専念し政務を取り仕切っていくのです。
正之が主導して行われた政策の例をあげると、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火の復興において、焼失した江戸城天守閣の再建を中止し、町屋の復旧を優先させた事。急激な人口増加による江戸の水不足問題を解決するため、財政難を理由に反対の多かった「玉川上水」の開削を推進などがあります。
幕府の重鎮となって以降も正之は謙虚だったそうで、幕府から松平家を名乗ることを勧められても保科家への恩義を忘れることなく固辞。会津藩保科氏が松平姓に改め親藩へ列したのは3代正容の時代になってからです。
正之は大変囲碁好きだったそうで、安井家二世の安井算知に幕府とは別に禄を与えて囲碁を教わっていました。後に算知が名人碁所になれたのも正之の後ろ立てがあったからかもしれません。
また碁好きが災いした事もあり、御城碁で本因坊算悦と安井算知の対局を観戦していた際、何気なく「本因坊の形勢が良くないようだ」と発言してしまい、それを聞いた算悦が「自分が命を賭けて碁に向かうのは武士が戦場に臨むのと同じ事だ。」と憤慨、対局を中止して帰ろうとします。結局、正之が謝罪して対局は続けられましたが、この出来事は棋士の心構えを示すものとして称賛され語り継がれています。
寛文9年(1669)正之は嫡男の正経に家督を譲り隠居。寛文12年(1672)に亡くなっています。享年63歳。
正之は生前「会津家訓十五箇条」を定めていますが、その第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記しています。以降、藩主や藩士はこれを忠実に守り、幕末の藩主・松平容保は戊辰戦争において最後まで討幕派と戦っています。
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