日蓮聖人像(高村光雲作 鎌倉・長勝寺) |
松葉ヶ谷草庵跡の御法窟(安国論寺) |
現存する日本最古の囲碁の棋譜は、日蓮宗(法華宗)の宗祖、日蓮が1253年に対局した際の棋譜とされています。
日蓮は、承久4年(1222)安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)で生まれ、天福元年(1233)に清澄寺(千葉県鴨川市)に入門した後、暦仁元年(1238)16歳の時に出家します。
比叡山や高野山などで学んだ日蓮は、法華経が真の仏教の教えであるとして、建長5年(1253)に日蓮宗(法華宗)を創始。鎌倉の松葉ヶ谷に草庵を結び、そこから市中へ出て布教活動を行っています。
、文応元年(1260)には『立正安国論』を著し、時の権力者北条時頼に提出しますが、その中で、当時頻発していた天変地異や疫病は、法然の念仏宗や禅宗などの邪宗が原因で、法華経を信じなければ内乱や他国からの侵略を受けることになると主張。
そのため、激怒した念仏宗の信者により松葉ヶ谷の草庵が襲撃され、日蓮は下総国若宮(千葉県市川市)へと退避します。
日蓮の宗派を危険な集団と見なした幕府は、鎌倉へ戻った日蓮を拘束し、伊豆の伊東に流罪、弘長3年(1263)には一旦赦免されていますが、文永8年(1271)に再び捕えられ佐渡への流罪となっています。
しかし文永11年(1274)日蓮の予言した通り蒙古襲来が現実的なものとなると、執権・北条時宗は日蓮の赦免を決定。鎌倉へ戻った日蓮へ、幕府は戦争回避の祈祷を依頼しますが、日蓮は他宗派への帰依をやめるよう迫り話し合いは決裂しています。
その後、幕府に見切りをつけ鎌倉を退いた日蓮は、信者の南部実長が治める身延山(現在の山梨県)に久遠寺を開き、ここで人材育成に努め法華経の教えを広めていきます。
弘安5年(1282)病のため体調が悪化した日蓮は、湯治のため常陸国へと向かいますが、その途中の武蔵の国池上(東京都大田区)で61年の生涯を閉じています。
日蓮の棋譜は1253年に松葉ヶ谷の草庵にて弟子の吉祥丸(日朗)と対局したもので、江戸時代後期に、井上門下の三神松太郎によって発見されたそうです。
しかし、この棋譜が本物であることを裏付ける資料はなく、偽物であろうという考えが現在の主流となっています。
ただ、日蓮自筆の書物の中には碁に関する記述もみられ、日蓮が囲碁を打っていたのは間違いないようです。
余談ですが、江戸時代に囲碁界のトップに立つ本因坊算砂が住職を務めた寂光寺は日蓮を宗祖とする分派・顕本法華宗の寺院です。
【囲碁史スポット】
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