鎌倉幕府第5代執権北条時頼は、第3代執権北条泰時の孫で、若くして父が亡くなったため、祖父に養育されます。
仁治3年(1242)に祖父・泰時が亡くなり時頼の兄、北条経時が4代執権に就任しますが、経時は病となり時頼が職務を代行することが多く、一族の話し合いにより寛元4年(1246)時頼が5代執権に就任しています。
しかし、政権中枢の有力御家人の大半が時頼の執権就任を支持せず、特に北条得宗家との対立により退いた前将軍・藤原頼経の一派が反乱の動きを見せたため、これを鎮圧した時頼は、頼経を京都へ追放しています。
さらに有力御家人、三浦泰村一族を滅ぼすなど反対勢力を一掃した時頼は独裁政治を開始していきますが、御家人たちが不満を抱かぬよう、訴訟や政治の公正や迅速化をはかった事から、数々の善政を行った名君と評価されています。
鎌倉幕府は、大事件が起きた際、諸国の武士を鎌倉へ招集していましたが、「鉢木」という謡曲(能の曲)では「いざ鎌倉」という言葉が使われています。
「鉢木」は、北条時頼が執権を退いた後に僧となって諸国を廻ったという伝説から生まれたものです。
上野国 (群馬県)の佐野(高崎市内)に、佐野源左衛門常世という貧しい武士が住んでいました。
ある雪の夜に常世の家に旅の僧がやってきて一晩泊めてくださいと頼まれます。僧を泊めることにした常世は、粟のご飯でもてなし、薪がなくなると、大切にしていた鉢植えの梅・松・桜の木を囲炉裏にくべ暖をとります。常世は一族に領地を取られ、今は落ちぶれてしまったが、「いざ鎌倉」というときには一番にかけつけて戦う覚悟だと語りました。
その後、鎌倉幕府から各地に招集がかかり、常世は、やせ馬に乗って鎌倉に駆け付けますが、そこには、雪の夜に泊めた旅の僧がいて、前執権・北条時頼であったとわかりました。時頼は、常世の言葉に嘘がなかったとして、褒美に奪われた領地を取りもどし、大切な木をくべたもてなしのお礼として、梅田・松井田・桜井の三ヶ所の土地が更に与えられたと言われています。
ところで、北条時頼は囲碁の愛好家であったと言われ、「吾妻鏡」には御家人・長井泰秀の屋敷にて宇都宮泰綱、二階堂行義らと囲碁に興じたと記されています。
当時、博打を行う武士が多かったため時頼は武士による博打の禁止令を出していますが、「但し囲碁・将棋者は非制限」とした事から、武士の間で囲碁が広まっていったそうです。
康元元年(1256)時頼は、実子がまだ幼いため執権職を義兄の北条長時に譲り、最明寺(現在の明月院)で出家しますが、政治的実権は握ったままで院政を敷いていたと言われます。
弘長3年(1263)病により危篤となった時頼は、「吾妻鏡」によると袈裟をまとい座禅を組んで、阿弥陀如来像の前で息を引き取ったと言われています。享年37。
【囲碁史スポット】 明月院 北条時頼の墓
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