家元林家の四世林朴入門入は元の名は片岡因的という本因坊道策門下の碁打ちでした。
宝永2年(1705)七段の時に、病弱であった三世林玄悦門入の養子となり、名を林因竹と改め御城碁に初出仕。翌年、玄悦の隠居に伴い四世林門入となります。
宝永7年(1710)琉球のの碁打ち屋良里之子に免状を発行する必要が生じ、兄弟子であった井上道節因碩が碁所に就任した際、道節の意向を本因坊道知に伝え、道知から幕府へ碁所就任願いを出すよう依頼。
道節の死後は各家元の最年長として、享保5年(1720)に本因坊道知の準名人(八段)昇段推挙を主導。その後、井上因碩と共に道知の名人碁所就位願いを幕府に申請し享保6年(1721)に道知は碁所に就任。同年、門入は安井仙角、井上因碩と共に八段に昇段しています。
享保5年に道知門下の井家道蔵を跡目とした門入は、享保11年(1726)に隠居して、朴入を号します。そして元文5年7月29日(1740年8月21日)に亡くなっています。
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