2021年5月20日木曜日

林因長門入

  林家の五世林因長門入は元の名は井家道蔵という本因坊道知門下の碁打ちで、享保5年(1720)に四世林朴入門入の跡目となり因長を名乗ります。

 享保11年、朴入の隠居に伴い林因長は七段で家督を相続し五世林門入となります。

 元文2年(1737)将棋の若き名人伊藤宗看が、碁打ち優先の慣行の廃止を求める「碁将棋名順訴訟事件」を起こしますが、囲碁家元の最年長で八段準名人であった門入は、他の当主、本因坊秀伯、井上春碩因碩、安井春哲仙角と結束して反対。従来の取り決めを死守します。

 将棋界の攻勢には一致団結した各家元も、その後は対立を繰り返していきます。元文4年に本因坊秀伯が七段昇段を求めると、門入と因碩が反対したため秀伯と因碩との間で争い碁が行われますが、その最中に秀伯は病のため亡くなっています。

 寛保3年(1743)、門入は道知が亡くなって以降空位となっていた名人碁所就位の願いを幕府へ申し出、これに井上因碩は賛同しますが、秀伯の後を継いだ本因坊伯元、安井仙知が反対。寺社奉行の大岡忠相は争碁による決着を促しますが門入は辞退し同年に隠居、延享2年11月2日(1745年11月24日)に亡くなっています。

 なお林家の歴代当主の中で名人碁所になろうとしたのは因長門入のみで、林家からは名人碁所が輩出される事はなかったそうです。


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