本因坊算砂 |
【僧侶としての経歴】
囲碁家元の初代本因坊算砂は、京都の顕本法華宗本山・寂光寺の二代目住職で元の名は本行院日海。『本因坊』とは日海が寝泊まりしていた塔頭の名称で、本因坊算砂と名乗るようになったのは、江戸幕府成立後、江戸へ出向くようになってからだそうです。
碁打ちとして頭角を現す前の算砂の半生は不明な点が多いのですが、永禄2年(1559)に京都の舞楽宗家・加納與助の子として生まれ、幼名は與三郎。8歳の時に叔父で法華宗の高僧の久遠院日淵の門に入り日海と名乗ります。
日淵は顕本法華宗の総本山・妙満寺の僧侶でしたが、この時期は近江や越前で修業後に北越を巡教していた事から、日海は恐らく妙満寺あたりに一旦預けられ、後に京へ帰った日淵のもとで本格的に修行したのではと考えられています。
天正5年(1577)妙満寺二十六世貫主に就任した日淵は、その翌年に寂光寺を創建しますが、この頃には日海は日淵の傍らにいたと考えられます。
慶長3年(1598)妙満寺貫主を退いた日淵は寂光寺に隠退し、慶長14年に81歳で死去。その間の慶長年間に日海は寂光寺二世貫主に就任しています。
寂光寺の記録によると日海に貫主の座を譲った日淵が名乗ったのが「本因坊」で、算砂は僧侶としては二世本因坊、碁打ちとしては初代本因坊という位置付けとなり、本因坊の名は日淵が亡くなって間もなく継承していますが、算砂と名乗るのは江戸時代となってからのようです。
【名前の由来】
「本因坊」は現在「ほんいんぼう」と読みますが、本来は「ほんにんぼう」と読むのが正しいそうです。
「算砂」は当初は「筭沙」(さんしゃ)と書かれていて、「本因坊筭沙」(ほんにんぼう さんしゃ)というのが正しい呼び名でした。
「筭」は「算」の異体字であり、数、あるいは計算するという意味があり、手だてを考える、または暦を見て観測し工夫するという意味もあるそうです。
「沙」は「砂」と同じ意味ですが、「砂」が小さい石の集まりという物理的な意味合いが大きいのに対し、「沙」は細かい砂という意味から無限という概念を表すようになり、仏教用語の中にも取り入れられています。
余談ですが、数を表す単位で1億分の1、つまり10ナノの事を漢字では「沙」と言うそうです。したがって、「筭沙」とは、無限の手だて、無限の工夫という意味になります。
そして、「砂」は「沙」の俗字であることから、誰かが「筭沙」の事を書いたときに「砂」と書いたため以降、算砂の名が定着していったと考えられます。
【碁打ちとして】
本因坊算砂の囲碁の師匠は囲碁界の重鎮であった仙也と言われ、その根拠は1706年に五世本因坊道知が編纂した家元伝書『伝信録』や、林家の記録『家康雑記』などで紹介されている豊臣秀吉の朱印状とされています。
天正16年に秀吉は、誰が一番強い碁打ちなのかと、名だたる碁打ちを集めて碁会を開き、最も優秀な成績を収めた算砂に朱印状を与えますが、その中には「今後、他の碁打ちは本因坊を上手と認め定先で打つこと。ただし仙也については本因坊の師匠なので互先でよい」と記載されていました。
しかし、仙也が算砂の師匠とする根拠はこれだけしか無く、朱印状も写しがあるだけで実際に存在していたのか分からないそうです。
そもそも、師匠に対して弟子が同格の互先で打つという儒教的発想は、戦国時代の色合いを多く残す豊臣時代より、国を統治するため儒教を普及させていった江戸時代中期の考え方であり、『伝信録』が造られた時に創作されたというのが現在のところ有力な説となっています。
『伝信録』は火災により焼失した本因坊家の記録に代わりまとめられたもので、家元としての権威を高めるため一部の話が創作された可能性があることから、仙也が算砂の師匠という話も疑問符が付くのです。
算砂は何時頃から碁を学んだのか分かりませんが、堺の茶人・津田宗及が記した『宗及茶湯日記他会記』に、元亀2年(1571)津田邸で催されたの茶会の後、宗心という当時活躍していた碁打ちが京より招かれた新発意(しんぼち)という十三歳の少年と対局したとの記録があります。
新発意が何者なのか分かりませんが、当時の日海と年齢が一致していて、ひょっとすると若き日の算砂だったのかもしれません。
【信長と秀吉】
算砂は信長、秀吉、家康の碁の指南をしたと言われていますが、家康はともかく、信長と秀吉については信憑性は低いと考えられています。
天正6年(1578)上洛した織田信長は算砂を召し出し、五子で教えを受けたり、他の碁打ちとの対局を見て「そちはまことの名人なり」と賞賛。
これが囲碁・将棋の達人・上手を「名人」と呼ぶようになった始まりで、以降信長は算砂に囲碁の指導を受けたと言う話が残されています。
しかし、当時二十歳の算砂に果たしてそれだけの実力があったのか疑問視する研究者もいます。
また、翌年に安土で法華宗と浄土宗との紛争が起こり、信長の仲介により実施された「安土宗論」と呼ばれる問答対決で、法華宗側の一人として参加した算砂の師である日淵が敗者として信長に弾圧された事から、算砂が信長の指南をしたとは考えにくいという意見もあります。
信長に関しては「本能寺の変」のエピソードも有名です。
天正10年(1582)本能寺の変前夜に算砂は、信長の御前でライバルの本能寺の僧侶、利玄と対局。その時に滅多に起きない三コウが発生したため決着が着かずに終局し、皆が珍しい事だと話していたところ、明け方に本能寺の変が起こったそうで、これにより三コウは不吉の兆しと言われるようになります。
この話は本因坊道知の門人・石井恕信がまとめた「石井恕信見聞録」や、十一世林元美の『爛柯堂棋話』で紹介されていますが、信憑性が高い信長に関する記録「信長公記」では、本能寺の変の前夜、信長の元へ多くの公卿などが訪れ茶会が催されたものの、出席者の中に碁打ちの名は見当たらないそうです。
そもそも「信長公記」や、それを元に加筆された「信長記」には信長が囲碁を嗜んだという記述は無く、算砂に関する記述もありません。そのため三コウの伝説も本因坊家の権威を高めるために創作されたものではないかと言われています。
秀吉についても同じような事が言え、朱印状の話のように秀吉と算砂に関する様々な逸話がありますが、史実であるのか懐疑的と言えます。
秀吉は公卿の日記等から囲碁を嗜んでいたことははっきりしています。また、算砂は聚楽第などに招かれ秀吉や関白秀次の御前で対局していますが、当時の算砂はようやく碁打ちとして名を知られるようになった程度で、秀吉に指南する立場では無かったと思われます。
【家康との関わり】
現在確認されている資料で、碁打ちとして本因坊の名が登場する最も古い書物は、恐らく公卿・山科言経が文禄三年(1594)に記した『言経卿記』であると言われています。
徳川家康が三条家にて終日、囲碁や将棋に興じたという記録の中に、参加者の一人として古田織部らと共に、その名が記されています。
文禄3年は第一次朝鮮出兵「文禄の役」が終結した翌年で、当時の算砂は三十代後半。この頃の算砂は他の碁打ち達より後に名前が記されているため、それほど名が知られた人物ではなかったと思われます。なお『言経卿記』では「本因坊」ではなく「本胤坊」と当て字が使われています。
秀吉の死後、家康は関ヶ原の戦いに勝利するなど、天下取りに向けて着々と体制を固めていきますが、その一環として、上洛した際には頻繁に京の公家や財界人、有力武将たちを招き酒宴や碁会・将棋会を開きや茶会を催し親睦を図りながら情報収集をしています。
酒宴においても家康は碁打ちや将棋指しを同行させていたそうで、その中でも特に算砂を重用した事から算砂は囲碁界のトップに登り詰めて行くことになるのです。
算砂と徳川家康の出会いは、寛永年間に編纂された「当代記」によると、家康が秀吉に臣従した翌年の天正15年に、算砂が門人で家康の娘婿の奥平信昌が治める新城を訪れ、その後、信昌と共に駿府を訪れた事に始まります。
家康はもともと囲碁に興味がありませんでしたが、算砂の手ほどきで面白さに目覚め、以降、囲碁界最大の支援者になっていくのです。
なお家康と算砂は、天正4年に行われた新城城の築城完成披露へ参加している事から、駿府では全くの初対面という訳ではなかったのかもしれません。
【江戸へ】
慶長8年(1603)家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開くと、有力な碁打ちたちは江戸へ招かれ滞在するようになります。算砂も寂光寺を日淵の弟子に譲り江戸へ赴きますが、当時はあくまで京都が拠点で定期的に江戸へ出向いていたそうです。
この頃の算砂は囲碁界のリーダー的存在で、家康が将軍となって二ヶ月後には利玄と共に後陽成天皇の前で対局を披露。慶長12年(1607)には日本初の囲碁出版物「本因坊碁経」を刊行しています。
慶長17年(1612)、幕府は有力な碁打ち衆、将棋衆8名に俸禄を与え、算砂は、利玄、大橋宗桂と共に50石10人扶持とされます。俸禄は個人に対するものでしたが、これが後に家元創設へとつながって行きます。
なお当時、絵師の狩野探幽には200石支給されていた事から、碁打ちは決して高い地位では無かったのですが、算砂は、慶長16年(1611)に権大僧都という僧侶として高い地位に叙せられ優遇されていたと言えます。
算砂は囲碁界を統括する初代名人碁所として知られていますが、碁所という役職が出来たのは後の時代のことで、それに相当する立場であったというのが正解のようです。
元和3年、加賀藩第2代藩主・前田利常の招きで約2年金沢に滞在していた算砂は、金沢城近くに本行寺を開山し初代住職となります。
利常への囲碁の指南に対するお礼として藩が建立したものですが、算砂を通じて将軍家に忠誠を示したのではとも言われています。算砂は本行寺を開山すると、すぐに弟子に寺を任せて金沢を離れています。
【晩年】
算砂を重用し囲碁界を支援した徳川家康は、算砂が金沢に滞在中の元和2年に亡くなっています。そして算砂はその7年後の元和9年(1623)5月16日に死去。後継者の算悦の育成を弟子の中村道碩に託して京都寂光寺に葬られています。
辞世の句は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」
0 件のコメント:
コメントを投稿