2021年4月30日金曜日

大久保利通

 

大久保利通

【大久保の生涯】

 西郷隆盛、木戸孝允と並び「維新の三傑」と称される大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)薩摩藩鹿児島城下の下級武士の家に生まれ、元服後に記録所書役助として藩へ出仕します。

 しかし嘉永3年(1850)藩主・島津斉興が嫡子・島津斉彬を廃して側室の子・島津久光を後継者にするために、「お由羅騒動」と呼ばれる斉彬派の粛清を行い、大久保は騒動に巻き込まれた父に連座し謹慎処分となります。

 その後、幕府の介入により斉興は隠居に追い込まれ、島津斉彬が藩主に就任すると、大久保は嘉永6年(1853)に復職を果たし、斉彬が重用した西郷隆盛と共に、藩政改革を志す「精忠組」の中心人物として活躍していきます。

 ところが幕閣にも大きな影響力を持つ島津斉彬が安政5年(1858)に急逝すると事態は一変。新藩主・島津茂久の実父である島津久光が国父として藩の実権を握り、盟友の西郷は失脚して遠島処分となります。

 そして、西郷に代わりに精忠組を率いた大久保は、久光の趣味である囲碁を通じて久光に取り入っていきます。

 公武合体運動に尽力し、その後は倒幕運動へと転じていった大久保は、復権を果たした西郷や岩倉具視、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らと共に王政復古、戊辰戦争を主導し明治政府樹立に大きく貢献していきます。

 明治に入り木戸孝允らと版籍奉還、廃藩置県を断行し中央集権体制の確立に尽力した大久保は、明治4年(1871)に大蔵卿に就任。同年岩倉使節団副使として海外を歴訪しています。

 帰国後、参議となった大久保は、征韓論論争で朝鮮出兵に反対し征韓派の西郷や板垣退助らと対立。論争に敗れた西郷らが野に下ることとなります。

 明治6年(1873)初代内務卿に就任した大久保は、政府の実権を握り学制や地租改正、徴兵令など「富国強兵」の政策を推進。近代日本の基礎を築き上げていきます。

 しかし一部の有力政治家による急激な改革には各地の士族たちの不満が高まり『佐賀の乱』『神風連の乱』などが続発。明治10年(1877)には盟友の西郷隆盛を盟主とする国内最後で最大規模の内戦、西南戦争が勃発し、大久保は京都にて政府軍を指揮し、これを鎮圧しています。


【大久保と囲碁】

 大久保利通は、唯一の趣味が囲碁と言われるほどの囲碁の愛好家であり、息子の牧野伸顕は、父は頭を使いすぎて疲れたときには碁を囲みリラックスしていたと語っています。

 特に囲碁の逸話として有名なのが、藩の実権を握る島津久光に取り入るため、久光の趣味で囲碁である囲碁を学んだという話です。

 久光の囲碁の師であるは吉祥院住職の乗願が精忠組の税所篤の兄であったことから、大久保は乗願に弟子入りして囲碁を学びながら国政に対する熱い思いを乗願に語り、やがて乗願を通じ久光へ拝謁し、以降側近として重用されていくようになるのです。

 大久保は乗願に弟子入りする前から囲碁を嗜んでいたようですが、当初の実力はかなり低く、嘉永元年(1848)正月の日記には、訪ねて来た知人と囲碁を三局打って全敗したと記されています。そのため、大久保は乗願の門人となれるだけの実力を付けようと妻らと囲碁の猛特訓をしたと言われています。

 維新の三傑の大久保、西郷、木戸を始め、岩倉具視など新政府の要人には囲碁の愛好家が多く、幕末から維新にかけて国事に奔走する間も共に碁に興じていたそうです。維新という大事業が成功した背景には、中心人物が碁を通じ互いの性格を熟知していたことが挙げられるかもしれません。

 大久保と木戸に関して、次の様な囲碁の逸話が残されています。

 明治8年(1875)征韓論争により下野した西郷に続き、台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允まで職を辞し帰郷。政府の運営が大久保利通一人に委ねられるという緊急事態となり、事態を憂慮した井上馨や伊藤博文は、大阪で実業家として活躍していた五代友厚の斡旋により一同を大阪に集めることとします。

 大阪で大久保は五代の屋敷に滞在しますが、同郷の五代は大久保の囲碁仲間だったそうで、滞在中は囲碁をしながら過ごしていました。その間、事前の話し合いのため木戸も訪れていますが、この時、大久保と木戸も碁を囲んだそうです。

 板垣退助も参加し数回に渡り行われた「大阪会議」と呼ばれる会談は、話し合いが難航する中、懇親会で酒癖の悪い黒田清隆(第二代内閣総理大臣)が泥酔し暴れたため決裂寸前となります。しかし、会談成功の重要性を認識していた木戸は囲碁会を開催することで関係修復を図り、再開された会談により木戸らの政界復帰が決まったそうです。

 この他、大久保に関する囲碁の話しとして大隈重信の語録をまとめた「大隈候一言一行」(大正11年、早稲田大学出版部)の中に、大久保と岩倉具視の対局について記述がありました。

 「岩倉と大久保は両人ともなかなか(囲碁が)上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は激しやすい人であったので、岩倉はその呼吸を知っているから、対局中、常に大久保を怒らせて勝ちを取った。」

 大久保は新しい時代のために盟友の西郷隆盛でさえ切り捨てた冷徹な合理主義者というイメージがありますが、意外にも激高しやすい性格で、反対に岩倉具視は相手の性格を見抜き対処する能力に長けていたことが分かります。


大久保が暗殺された紀尾井坂

右大臣大久保公哀悼碑(清水谷公園)

大久保利通の墓(青山霊園)

【大久保の最期】
 西南戦争終結から七ヶ月ほど経った明治11年(1878)5月14日に大久保は不平士族に襲撃され亡くなっています。
 当日の朝、大久保は、二頭立て馬車に乗り、護衛もつけず霞ヶ関の屋敷から火災により仮移転していた皇居(現赤坂御所)に向けて出発。
 現在の東京都千代田区紀尾井町にある紀尾井坂へ差し掛かった時に刺客の襲撃を受けます。
 刺客は、日本刀で馬の足を切った後に御者を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろします。大久保は「無礼者」と一喝しますが斬殺され49歳の生涯を閉じます。
 大久保を殺害したのは石川県士族5名と島根県士族(旧鳥取藩士)1名の6名のグループで、逃走するのは卑怯だとして自首。殺害の理由として、「国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。」「不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。」などを挙げていますが、国会開設や憲法制定については大久保の了承のもと、すでに作業が進められていて、「大久保が公共事業を利用して蓄財した」という彼らの指摘は思い込みで、実際は大久保は事業費の不足分に私財を投じ自ら借金して対応していたため、死後、多額の借金が残されていました。グループのリーダーはこうした事実を知らされ愕然としたといいます。
 政府は、このままでは遺族が路頭に迷うとの配慮から、大久保が生前に鹿児島県庁へ学校建設の費用として寄付したお金を回収し、さらに募金を集めて遺族へ贈っています。また債権者も残った借金を遺族に請求しなかったと言います。
 大久保利通の墓所は青山霊園にあり、墓石は巨大な墓石は亀の上に載っている形状。鳥居も設置され、青山霊園の中でも一際目立っています。
 大久保の墓の後方には、共に殺害された御者の中村太郎と、馬車を引いていた馬の墓もありました。
 大久保が暗殺された場所の近くには哀悼碑が建立され、清水谷公園として整備されています。

 大久保が亡くなった翌年に、囲碁界では方円社が設立され家元との対立の時代が始まります。
 囲碁家元の俸禄を打ち切った明治政府ですが、維新三傑は皆、囲碁の愛好家であった事から、彼らがもっと長く生きていたら囲碁界の歴史も変わっていたかもしれません。
 大久保の次男である牧野伸顕は、大正13年に日本棋院が設立された際、初代総裁に就任しています。

大久保利通の墓:東京都港区南青山2丁目 青山霊園 1-イ2-15~17
清水谷公園  :東京都千代田区紀尾井町2-1

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