2021年3月14日日曜日

吉備真備

吉備真備像(岡山県倉敷市真備町)

 古代中国で誕生した囲碁が、いつ頃日本へ伝わってきたのか定かではありませんが、江戸時代に徳川吉宗の命令で囲碁の起源が調査された際には、奈良時代の学者・吉備真備により伝えられたと結論付けられています。

 吉備真備は吉備地方(岡山県)の有力豪族である吉備氏の分派・下道氏の出身で、霊亀2年(716)に遣唐使として入唐し儒学・天文学・音楽・兵学等を学んでいます。

 天平7年(735)に帰国した際、唐より数多くの品を日本に持ち帰ったとされ、経書『唐礼』、暦『大衍暦経』『大衍暦立成』、日時計、楽器(銅律管・鉄如方響など)、音楽書『楽書要録』、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)などが朝廷へ献上されています。

 孫氏の兵法や、陰陽道を伝えたのも吉備真備と言われ、陰陽師・安倍清明は真備の子孫であるという話もあります。

 そして、囲碁も真備によって日本に伝えられたと言われているのですが、「魏志倭人伝」に日本で囲碁が打たれていると記されていることから実際には囲碁は真備の時代より随分前に日本へ伝わっていたようです。

 帰国後、聖武天皇・光明皇后に重用され異例の出世を重ねた真備は、天平13年(741)には東宮学士に任ぜられ皇太子、阿倍内親王(孝謙天皇)の教育にあたっています。

 天平18年(746)に、真備は下道姓から吉備姓へ改姓しますが、これは地方の一豪族出身である真備が異例の出世を遂げたことへの風当たりが強いため、一族が吉備地方を代表する大豪族となったことを示したとも言われています。

 天平勝宝3年(749)吉備真備のことを快く思っていなかった藤原仲麻呂が大納言に昇進し政治の実権を握ると、真備は地方へ左遷され、更に天平勝宝4年(752)には遣唐副使として再び唐へ送られます。

 翌年、真備は鑑真をともない帰国を果たしますが、中央政界への復帰は叶わず大宰府への赴任を命ぜられています。なお、真備の大宰府赴任については、当時日本と新羅との関係が悪化していたことから、防衛強化のために派遣されたという説もあります。

 天平宝字8年(764)70歳となった真備は、造東大寺長官(東大寺建立の責任者)に任ぜられようやく都へ帰る事ができます。同年、真備を地方へ追いやった藤原仲麻呂が、孝謙上皇と対立し「藤原仲麻呂の乱」を起こすと、孝謙上皇側についた真備は中衛大将として追討軍を指揮。その功績により中納言、大納言と立て続けに昇進し、最終的に従二位・右大臣に就任します。地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者でありながら大臣にまで出世した人物は、吉備真備と菅原道真の二人しかいないそうです。

 平安時代に作成された『吉備大臣入唐絵巻』(ボストン美術館蔵)は、唐に渡った吉備真備が数々の難題を克服していくという絵巻物ですが、その中に真備が日本へ囲碁を持ち帰った経緯が描かれています。

 唐へやってきた真備の才能に恐れを感じた唐人が様々な難問を突き付け達成できなければ処刑すると迫りますが、その一つとして真備が唐の囲碁の名人と対決することとなります。

 囲碁を知らなかった真備は、唐で亡くなった安倍仲麻呂の化身である鬼から囲碁を教わり対局。熱戦となる中、僅かに分が悪いと感じた真備は相手の目を盗んで相手の石を一つ飲み込んで勝利します。

 占いによりそれを知った対戦相手は下剤を使って石を出そうとしますが真備は術を使いそれを防いで負けを認めさせます。そして帰国後、日本へ囲碁を伝えたというお話です。

 学者、そして政治家として多彩な才能を発揮した吉備真備は、宝亀2年(771)に官職を辞し、宝亀6年(775)に逝去。享年81。最終官位は前右大臣正二位でした。

 

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