2021年3月9日火曜日

九世本因坊察元

本因坊察元の墓(本妙寺)

  家元筆頭格の本因坊家で6世知伯、7世秀伯、8世伯元と立て続けに当主が20代で亡くなり、「碁道中衰の時代」と呼ばれていた時期に終止符を打ち、「棋道中興の祖」と称されているのが九世本因坊察元です。

 察元は8世伯元と同じ、現在の埼玉県幸手市の出身で本姓は間宮。幼いときに伯元の門人となります。

 宝暦4年(1754)22歳六段のときに師匠伯元が病に倒れ、跡目となった察元が本因坊家を継承しています。

 家督を相続した察元は本因坊家を再び隆盛に導びくため、まず宝暦6年(1756)に七段昇段を目論み、反対する井上因碩と林転入門入に対し争碁を迫り、強引に七段昇段を果たしています。

 明和元年(1764)因碩と共に八段準名人となった察元は、今度は名人碁所の座を狙うようになります。

 察元以前の囲碁界では五世林因長門入が名人碁所を狙った事から林・井上家と本因坊・安井家の2派に分かれて対立していました。

 しかし名人碁所を狙う察元の強引さに反発した安井家が反対派に転ずる一方、五世本因坊道知門下の祐元が当主となった林家が察元の味方につき対立の構図が大きく変わっていきます。

 明和3年(1766)に察元が名人就位願いを出すと井上春碩因碩との間で二十番の争碁が開始されますが、翌年、6局で察元5勝1ジゴとなったところで因碩の病のため中断。それまでの勝敗が考慮されて察元の名人位が認められる一方、碁所への就任は保留されます。

 その後も察元は碁所就位を求める一方、井上家と安井家は再度の争碁を求めて対立。明和7年(1770)に老中列席の下で寺社奉行が裁定し、ようやく察元の碁所就任が決定します。

 同年、山本烈元を跡目に定めた察元は、大名行列さながらの行列を組んで京都寂光寺への墓参りを行い本因坊家の威光を示しています。

 察元の強引な行動によって家元間で起きた対立は、結果として家元達の自覚を促すこととなり、低迷していた囲碁界は再び活気を取り戻していきます。

 また、当時の将軍徳川家治は、囲碁・将棋に理解があり、特に将棋の腕前は素人の域を超えていたそうで、その家治自ら御城碁観戦を行った事もあり、囲碁界は「暗雲の時代」をようやく抜け出すことが出来たのです。

 察元は天明8年1月26日(1788年3月3日)に亡くなり本因坊家の菩提寺である本妙寺の塔頭・感應院へ葬られます。現在巣鴨にある本妙寺の墓所を確認したところ、察元の墓石には十五世本因坊秀悦の名も刻まれていました。

 また、京都寂光寺には、道策・伯元・察元の名が刻まれている墓石が建立されています。更に近年になり故郷、幸手市でも墓碑が発見されています。


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