徳川慶喜 |
囲碁の愛好家であった徳川家康は、江戸幕府を開くと有力な碁打ちに禄を与え、その後、家元制度の確立と御城碁の開催など、囲碁は幕府の庇護のもと発展していきます。
しかし、幕末期には混乱により元治元年(1864)に御城碁が中止され、その3年後に大政奉還により幕府は崩壊。囲碁界は幕府という大きな後ろ盾を失っています。
江戸幕府最後の第15代征夷大将軍・徳川慶喜は、囲碁の愛好家として知られています。
天保8年(1837)水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は、弘化4年(1847)に御三卿・一橋家を相続します。
嘉永6年(1853)に徳川家定が第13代将軍に就任しますが、家定は病弱で継嗣をもうける見込みがなかったため、就任当初から将軍継嗣問題が浮上。慶喜を推す一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す南紀派が対立していきます。
そして南紀派である井伊直弼の大老就任により将軍継嗣は慶福に決まり第14代将軍徳川家茂が誕生。「安政の大獄」により一橋派は粛清され、慶喜にも隠居謹慎が命じられます。
しかし安政7年(1860)桜田門外の変により井伊直弼が暗殺されると慶喜は謹慎が解かれ将軍後見職として復権。将軍の名代として上洛し、朝廷と諸問題の交渉にあたります。
慶応2年(1866)第二次長州征伐で幕府軍が苦戦する中、将軍・家茂が急逝し、第15代征夷大将軍に就任した慶喜は、薩長を中心とする倒幕派に対抗するため慶応3年(1867)に大政を奉還。そして鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗退すると、江戸へ引き上げ謹慎生活を送っています。
戊辰戦争の最中も慶喜は新政府への恭順の姿勢を貫き謹慎生活を続け、明治2年(1869)に謹慎が解除された後も、政治に関わることなく謹慎先であった静岡で暮らし、趣味の世界に没頭していたといいます。
明治30年(1897)に東京へ居を移し、翌年に明治天皇に拝謁た慶喜は、新政府へ恭順し戦乱を最小限にとどめた功績により公爵に叙され、貴族院議員などを歴任します。
慶喜の棋譜(黒:徳川慶喜 白:高崎泰策 明治38年) |
明治以降、没頭していたという慶喜の趣味は、写真・狩猟・投網、自転車など実に多彩でしたが、特に囲碁は大変好きだったと言われています。
しかし、一般庶民のように碁会所で囲碁を楽しむというわけにはいかず、普段は家令(執事長)が相手をつとめていたそうです。また、慶喜に仕えていた渋沢栄一の記録によると、慶喜は度々碁会を開いていて渋沢も参加していたようです。
慶喜は、方円社二代目社長、中川亀三郎から囲碁の指導を受けていて、亀三郎が亡くなった後は、やはり方円社の高崎泰策が引き継いでいます。
実力は、現代のアマチュアの四,五段クラスと言われ、当時、政界でトップクラスの実力があった大隈重信は慶喜と対局したとき、その強さ、気品、大局観にびっくりしたと語っています。
慶喜の実力を示す棋譜は、現在のところ一枚しか確認されていません。明治38年(1905)69歳の慶喜が、当時六段の高崎泰策と5子で対局したもので、指導の後、高崎が書き留めていたもののようです。
慶喜の棋風は超堅実で、棋譜から強さの片鱗を伺うことが出来ますが、未熟な面もみられるのは致し方無いこと。この対局はジゴで終わっていますが、これは高崎がうまく調節したのかもしれません。
明治43年(1910)に家督を七男・慶久に譲り隠居した慶喜は、大正2年(1913)11月22日に波乱に満ちた76歳の生涯を閉じていますが、亡くなったときも家令と碁を打った後、具合が悪いといって死の床についたと伝えられます。
徳川慶喜の墓 |
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の墓所は、台東区谷中の谷中霊園にあります。塀に囲まれている区画は、慶喜が公爵に叙され際に徳川宗家から独立して興した「徳川慶喜家」の墓所で、慶喜の他に正室と二人の側室。慶喜以降の当主の墓もあります。
徳川慶喜家は慶喜の曾孫で写真家として知られた4代目当主・徳川慶朝が平成29年(2017)に亡くなり、分家はあるようですが嫡流は絶家しています。
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