井上門下の伊藤春碩は下総国出身で、享保11年(1726)21歳六段の時に、師匠・井上策雲因碩の跡目・高橋友碩が亡くなったため、再跡目となって御城碁に初出仕。
享保19年(1734)策雲の隠居にともない井上因碩(初代から五代目、系譜訂正後は六世))を継承しています。
元文4年(1739)本因坊秀伯が、七段上手への昇進について安井仙角を通じて林因長門入と因碩に同意を求めますが、両者とも承諾せず、そのため秀伯は門入との20番の争碁を申し出ます。しかし、門入は病気を理由に争碁を断り、代わりに因碩が秀伯と争碁を打つことになります。
秀伯先相先で元文4年(1739)11月11日の御城碁から開始された争碁は、翌年6月までに8局打たれ、秀伯の4勝3敗1ジゴとなりますが、その後秀伯が病に倒れ中断、そのまま秀伯は亡くなっています。
寛延元年(1748)に琉球使節が江戸を訪れた際、本因坊道策の時代と同様に琉球の碁打ちが家元へ対局を求めてきます。
田上親雲上、与那覇里之子の二人の碁打ちに対し、当時唯一の七段であった因碩が、門弟の岡田春達と共に対局することとなりますが、因碩が田上と三子、春達が与那覇と四子で行われた対局は、どちらも琉球側の勝利。勝利した田上は、五段の免状を求めてきましたが、慣例では外国人には三段の免状を与えていたこともあり、協議の結果四段の免状が与えられています。
井上家では寛延3年(1750)に岡田春達が跡目となりますが、一方で当主が三代に渡り、二十代低段位のまま亡くなり低迷していた本因坊家の当主・本因坊察元は、本因坊家の家元筆頭格としての権威を取り戻そうと、宝暦6年(1756)に七段昇段を他家に申し入れます。
その際、因碩と七世林転入門入は反対していましたが、察元が争碁を申し入れ、やむをえず昇段を認めています。
明和元年(1764)に因碩は察元と共に八段へ昇段しますが、明和3年(1766)に察元が名人碁所就任を願い出たことで、因碩と20番の争碁(互先)が開始されます。
対局は翌年3月までに6局行われ察元の5勝1ジゴ。その後、因碩の病気を理由に中絶され、察元は碁所就任は保留されたものの九段・名人位が決まります。
明和7年(1770)争碁が行われることなく寺社奉行の裁定で察元の碁所就任が決定し、その翌年に春碩因碩は春達に家督を譲り隠居。翌安永元年(1772)12月に亡くなっています。
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