初代井上因碩から三代目にあたる(系譜訂正後は井上家四世)井上道節因碩は、元の名を桑原道節と言う本因坊道策門下の五弟子(五虎)の一人でした。
道策は多くの優秀な弟子を育て、貞享元年(1684)には若き天才・小川道的を跡目に定めます。しかし元禄3年(1690)に道的が夭折し、再跡目に五弟子の一人、佐山策元をと考えます。
これに反発したのが師匠道策より一歳下で五弟子の桑原道節。自分と策元との争碁により跡目を決めるよう訴えます。
対応に苦慮した道策は、実弟の井上道砂因碩と協議し、道節に井上家を継がせることで納得させています。
元禄3年(1690)に井上家の跡目となった道節は45歳で御城碁に初出仕。元禄9年(1696)に道砂が亡くなると、翌年家督を継いで井上因碩となります。
一方、本因坊家では再跡目となった佐山策元も若くしてなくなり、その後道策は跡目を立てることはありませんでした。
元禄15年(1702)に本因坊道策が亡くなった際、臨終において13歳の神谷道知を後継者に指名していますが、道策は道節を八段準名人に進めるとともに、道知の後見として育成を託しています。この時、道策は道節に碁所を望まないとの誓約書を書かせたと言われています。
道節は本因坊家に居を移して道知の指導にあたり、宝永3年(1706)61歳の時に15歳の道知を七段に進め、後見を解いています。
宝永5年(1708)に道節は、名人九段に進みますが、道策との約束通り碁所に就任することはありませんでした。
しかし宝永7年(1710)、琉球の使節団が江戸へやってきた際に、琉球の碁打ち屋良里之子が道知と対局し、その屋良へ免状を発行する必要が生じたため、道節は碁所に就任しています。
囲碁界のトップに立った道節は、正徳3年(1713)には、後に古今最高の詰碁集と称される『囲碁発陽論』を著わしています。
元禄15年(1702)に、道策門下の三崎策雲(井上因節)を跡目としたほか、相原可碩や高橋友碩ら優秀な弟子を育成し、享保4年(1719)に亡くなっています。
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