故郷島根県大田市にある墓碑 |
初代井上因碩の跡を継いだ井上道砂因碩は、本因坊道悦門下で本因坊道策の実弟にあたります。当初は井上家二世という位置付けでしたが、幻庵因碩の系譜訂正に伴い三世と表記されている場合もあります。
慶安2年(1649)、石見国馬路(現・島根県大田市仁摩町馬路)の山崎家に生まれた道砂は、江戸へ出て兄と同じ本因坊門として修業に励みます。
寛文13年1月14日(1673年3月2日)に井上因碩が跡目を定めないまま没すると、同年12月に道悦は道砂の井上家相続願いを寺社奉行へ提出。翌年認められ道砂は井上因碩を名乗ります。そして道砂の相続により井上家は家元としての地位を確立していく事になります。
ところで、道砂や道策の母は熊本藩3代藩主・細川綱利の乳母でしたが、綱利は父の死により慶安3年(1650)に僅か7歳で家督を継いでいます。
正式に継嗣となる前に先代が亡くなり、細川家は取り潰しの危機に瀕していましたが家臣たちが奔走し、ようやく綱利の家督相続が認められたようです。
しかし道砂や道策が活躍する時代、幕府に綱利が家督相続した際、不手際があったとして、家宝の打物や虎の皮の鞍覆を没収しようという動きが出てきます。
御家存亡の危機の細川家は、初代算砂の頃から関係の深かった本因坊家へ相談を持ち掛けます。
道策は囲碁好きで本因坊家と関わりが深い将軍徳川綱吉の元側用・牧野成貞のアドバイスを得ながら政界工作の支援を行う一方、細川家より工作資金として3200両(約3億円)の用立を依頼され、その役目を弟の道砂に任せています。
本因坊家でも捻出できたのでしょうが、すでに細川家と強いつながりを持っている本因坊家より、井上家が対応し、関係を深めていった方が囲碁界にとっては良い事だとの配慮からで、道砂は屋敷を担保に費用を捻出しています。
こうして危機を脱した細川家は、以降も井上家とのつながりを深めていきますが、それが後の時代に思わぬ形で役立つこととなります。
嘉永2年(1849)、当時の当主井上秀徹(本因坊丈和の長男・節山)が精神に異常をきたし門人を惨殺するという事件を起こします。
これが公けになれば井上家は取り潰しとなる可能性がありましたが、殺された門人の父は細川家家臣であり、細川家と井上家の関係を考慮して、秀徹の隠退という形で内々に処理されたという事です。
井上道砂因碩は、延宝2年(1674)に御城碁へ初出仕して以降、元禄8年(1695)まで13局を勤めています。
元禄3年(1690)には兄・道策の跡目問題に絡み、本因坊門下の桑原道節を迎え入れ跡目とし、元禄10年(1697)に亡くなっています。
0 件のコメント:
コメントを投稿