2021年2月1日月曜日

七世本因坊秀伯

 

本因坊秀伯の墓(本妙寺)。六世知伯、十三世丈策と合葬

 七世本因坊秀伯は福島県の飯坂温泉近く、陸奥国信夫郡大飯田村の農家、佐藤勝右衛門の長男として生まれ、通称甚四郎といいました。

 甚四郎は五歳の時には周囲の大人より囲碁が強く、11歳で江戸に出て本因坊門下となります。

 享保18年(1733)18歳の時、帰省中に師の六世本因坊知伯が急逝したため、各家元の会議にて後継者へ指名され、急ぎ江戸へ戻り七世本因坊となります。

 秀伯の時代、元文2年(1737)に「碁将棋名順訴訟事件」が起きます。先代知伯が若くして亡くなり秀伯も段位が低くかったため囲碁界全体が勢いを失っていた時期に、将棋界では若き名人伊藤宗看の登場により隆盛を誇り、その余勢をかって宗看は碁打ち優先の慣行を廃止して平等にするよう幕府に提訴したのです。

 江戸時代、家康が取り決めた慣行により、囲碁と将棋の各家元が同席する場合、囲碁側が上座に座る等、囲碁界優位の決まりがありました。

 囲碁界は反発したものの、当時の幕閣には将棋派が多く、宗看を支持する寺社奉行・井上正之の裁定により要求は通るものと思われました。

 しかし正之が急逝し、その後任となった、名町奉行として知られる大岡忠相の裁定により、家康公の決めた事を変える必要はないと訴えは棄却され、囲碁界の面目は保たれたのです。

 その後秀伯は七段昇段を目指しますが、井上春碩因碩の反対により、元文4年(1739)に因碩との間に争碁が開始されます。これには林因長門入の碁所就任を秀伯が反対したという布石があったそうです。しかし第8局までで秀伯4勝3敗1ジゴとなったところで、秀伯が病に倒れ争碁は中断、翌年に26歳で逝去しています。

 先代知伯に続き秀伯も若くして亡くなったことは囲碁界にとって大きな痛手であり、低迷期は今しばらく続くこととなります。


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