本因坊秀元の墓(本妙寺)。十四世秀和と合葬 |
八世本因坊伯元は武蔵国幸手郡天神島村の尾崎家出身で、天文5年(1740)15歳の時に七世本因坊秀伯の門下に入ります。そして翌年に秀伯が危篤となると家元会議で跡目に選ばれ、安井家五世仙角が付添人となり八世本因坊を継承。同年に御城碁に初出仕しています。
門人となって日が浅く、年も若い伯元が跡を継いだのはそれだけ将来を期待されての事だったとのでしょう。
その後、先代の頃から続いていた林因長門入の名人碁所就任問題では仙角とともに反対し争碁を申し入れますが、門入は若く才気溢れる伯元との対局を嫌い名人碁所就任を断念しています。
このように、将来を期待されていた伯元は、宝暦元年(1751)に六段へ昇段しますが、宝暦4年(1754)に病に倒れ、門下で同郷の察元を跡目として僅か29歳でこの世を去ります。
家元筆頭格であった本因坊家で6世知伯、7世秀伯、そして8世伯元と立て続けに当主が20代で死亡し囲碁界全体が衰退。この時期は、碁道中衰の時代、あるいは暗雲の時代と呼ばれています。
伯元の墓は、巣鴨の本妙寺の他に、故郷幸手市の尾崎家の墓所にもあります。
【囲碁史スポット】
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