2021年2月2日火曜日

四世安井仙角

 

安井家歴代の墓

墓石に刻まれた名

 会津出身で二世安井算知の門人であった四世安井仙角は、元禄5年(1692)五段の時に三世安井知哲の跡目となり御城碁に初出仕します。
 宝永2年(1705)、当時六段であった仙角は御城碁において、二年前に本因坊家を継いだ15歳の本因坊道知と対局することになりますが、この時道知の後見である井上道節因碩より互先での対局を申し入れられます。
 成長著しい道知ではありましたが、当時はまだ四段であり、先手が有利とされる囲碁においてハンディ無しの2局を交互に先手で打つ「互先」での対局は仙角にとって屈辱的なことでした。
 仙角は寺社奉行に不服を申し立てますが、これに対し道節は争碁を申し込み、更に有力者の若年寄・久世重之らへの働きかけで「先相先」(3局を下位者が2局先手で打つ)での対局が開始されます。
 「宝永の争碁」と呼ばれる対局の一局目は中盤まで仙角が優位に進めますが終盤で道知が逆転。仙角はその後も連敗を喫して道知との互先での手合を了承しています。
 そして享保5年(1720)には井上家、林家と共に道知を準名人(八段)へ推挙し、翌年の名人碁所就位の願いにも同意。同年、自らも八段に昇段しています。
 享保12年(1727)仙角は本因坊門下の長谷川知仙を跡目としますが翌年に知仙は亡くなり、享保20年(1735)に門人の田中春哲を再跡目に指名。その二年後に亡くなっています。
 安井家の墓所は三世知哲までは京都寂光寺にありましたが、仙角以降は江戸深川浄心寺に改められています。
 なお、四世安井仙角の跡を継いだ春哲は五世安井仙角を名乗り、七世仙知も仙角を名乗っているため、四世は区別するために古仙角、あるいは親仙角と呼ばれています。

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