安井歴代之墓 |
墓石側面に刻まれた名 |
五世安井春哲仙角は、四世安井仙角門下で、田中春哲と名乗っていましたが、享保13年(1728)に先代の跡目知仙が亡くなったため、享保20年(1735)に再跡目となり、安井春哲として御城碁に出仕するようになります。
元文2年(1737)に四世仙角が亡くなり家督を相続した春哲は、先代と同じ安井仙角を名乗ったことから、区別するため安井春哲仙角とも称されています。なお、七世仙知も隠居後に仙角を名乗っています。
五世安井春哲仙角が当主となった時期は、家元筆頭の本因坊家で相次いで当主が若くして亡くなり囲碁界全体が低迷していました。
一方で将棋界は若き名人・伊藤宗看の登場で隆盛を誇っていたため、その余勢をかって宗看は御城碁将棋における家元の席順を碁を上座とする慣例を改めようと「碁将棋名順の訴」を起こしています。
これに対し五世仙角ら家元は、一致団結して反対し、最終的に名町奉行として知られた当時の寺社奉行・大岡忠相の裁定で従来の順位が守られています。
「碁将棋名順の訴」の件では結束した各家元も、囲碁界の低迷期を反映するように、その後は度々対立を繰り返しています。
元文4年(1739)に本因坊秀伯が七段昇段を求めた際には、五世仙角は了承したものの、林因長門入、井上春碩因碩が反対し、秀伯と因碩の間で争碁が行われますが、結論が出る前に秀伯が病のため亡くなってしまいます。
寛保3年(1743)には林因長門入が名人碁所就任願いを出しますが、仙角は秀伯の跡を継いだ本因坊伯元と共に反対。伯元が門入へ争碁を迫り断念へ追い込んでいます。
名人とは、最も優れた技能を持つ棋士への敬称であり、碁所は囲碁棋士を総轄し御城碁の管理を行う役職。基本的には名人就位に合わせて碁所への就任も認められていました。また名人碁所不在時には家元四家の合議により囲碁界は総轄されていたそうです。
本因坊伯元も宝暦4年(1754)に若くして亡くなり、跡を継いだ本因坊察元に対し、当初仙角は七段昇段に協力するなど友好的な関係を続けていましたが、明和3年(1766)に察元が名人碁所就位を願い出た際には、察元が八段昇段から一年しか経っておらず時期早々であると井上春碩因碩と共に反対しています。
そして察元と春碩の間で争碁が行われた結果、対局を優位に進めた察元の名人位は認められたものの、碁所就任は保留。察元は、その後も碁所就任を求めていきますが、これに対し五世仙角と因碩は、それぞれの跡目・仙哲、春達との争碁を再三要求しています。しかし幕府は、跡目では資格が無いとこれを認めず、明和7年(1770)に老中列席の下で寺社奉行が裁定し察元の碁所就任が決定します。
五世仙角は明和8年(1771)まで30局御城碁で対局し、準名人八段まで上り詰めていますが、一方で多くの門人を育て上げ、後の安井家の隆盛の基礎を築き上げています。
寛延元年(1748)に原仙哲を跡目としたほか、明和9年(1772)に坂口仙徳(六段)を外家(分家)とし御城碁へも出仕させています。一説には仙徳の御城碁出仕が認められたのは、強引に名人碁所となった察元が反発を和らげるために配慮したからとも言われています。
安永4年(1775)五世仙角は引退して仙哲に家督を譲りますが、六世となった安井仙哲が安永9年(1780)に亡くなったため、その養子であった坂口仙徳の息子・仙知が七世として家督を継いでいます。
安井仙知の名は、後に八世も名乗っていることから七世は「大仙知」と称されていますが、自分を当主に押し上げてくれた五世仙角を敬愛していたため隠居後に仙角を名乗り、区別のため「仙角仙知」とも呼ばれています。
五世安井春哲仙角は寛政元年(1789)に亡くなり、深川浄心寺に葬られています。
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