安井歴代之墓 |
墓石側面に刻まれた名 |
「ダメ」とは、価値のないこと、無駄なことという意味ですが、元々は囲碁用語であり、終局時に、そこに打ってもどちらも優位にならない領域の事を言います。
ところが、誰が考えてもダメと思われた一手が、後に絶妙な一手へと変わり勝利を収めたことから「ダメの妙手」として現在でも語り継がれているのが八世安井知得仙知です。
知得仙知は、本因坊元丈・井上幻庵因碩・本因坊秀和と共に、名人の技量がありながら名人とならなかった「囲碁四哲」の一人に数えられています。
安永5年(1776)伊豆国三島の漁師の家に生まれた知得は、幼い時に七世安井仙知の門に入り中野知得と名乗ります。
寛政12年(1800)25歳の時、五段であった知得は安井家跡目となり御城碁に初出仕すると、文化元年(1804)に七段に昇段。そして文化12年(1815)に七世仙知の隠居に伴い家督を継承。八世安井仙知と名乗ります。なお、仙知は先代が名乗った名であるため、区別するため八世は安井知得仙知と呼ばれています。
八世仙知と一歳年上の十一世本因坊元丈との間には約80局に及ぶ棋譜が残されていて、その実力はほぼ互角。七段、八段への昇段も同時であり、生涯のライバルとして切磋琢磨していきます。「ダメの妙手」も文化9年(1812)に元丈との間に打たれた一局です。
厚く打って攻めを得意とした元丈に対し、仙知は「いぶし銀」と評される堅実でシノギを得意とする棋風であり、対照的な二人の天才が同時代に存在したことで囲碁界は大いに盛り上がっていきます。しかし共に相手をリスペクトしていた仙知と元丈が、名人碁所を巡り争うことはなかったと言われています。
文政9年(1826)、知得は実子の俊哲を跡目とたほか、太田雄蔵、阪口仙得、片山知的など多くの優秀な人材を育てています。俊哲、雄蔵、仙得は、本因坊門の伊藤松和と並び「天保四傑」と称され、安井家は本因坊家に匹敵するほど隆盛を誇ります。
文政11年(1828)元丈の跡を継いだ本因坊丈和が名人碁所願を提出していますが、仙知は時期尚早として丈和との争碁を申し出。しかし仙知の病気のため日程が決まらないまま、天保2年(1831)に策略をめぐらした丈和は名人碁所に就任してしまいます。(天保の内訌)
天保6年(1835)に老中松平周防守邸で開催され、江戸時代最高の碁会と呼ばれた「松平家碁会」は、丈和を名人碁所の座から引きずり落とすために行われたとも言われ、碁会で仙知は林柏栄と対局。その三年後の天保9年(1838)に亡くなっています。
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