家元・井上家初代・井上因碩の師である中村道碩は、本因坊算砂の高弟と言われ、慶長年間には算砂、利玄らとともに、禁裏や江戸城などで対局した記録が残されています。
慶長17年(1612)に幕府より碁打衆、将棋衆8人に俸禄が与えられた際には、算砂、利玄、大橋宗桂に次ぐ50石を受けています。
なお、道碩は寛永3年(1626)、二条城において徳川秀忠の御前で安井算哲と対局していますが、これが一般的に御城碁の始まりと言われています。
元和9年(1623)、算砂が亡くなり二世名人として囲碁界を束ねる存在となった道碩は、算砂の遺言により当時13歳の本因坊算悦の後見を務めています。
寛永7年(1630)、病に伏した道碩は、20歳になった算悦に上手(七段)を認め、正式に本因坊家を継承させています。
そして幕府へ、弟子の井上因碩が禄を受けるよう願い出て、同年8月14日(1630年9月20日)に没しています。
井上家はこの後、因碩を初代とし家元として活躍していきますが、十世井上幻庵因碩は本因坊家への対抗意識から、名人・中村道碩を一世とする系譜訂正を行い、自らは十一世を名乗っています。
しかし因碩は道碩の弟子の一人に過ぎないため、道碩を初代とする事には異論も多く、井上家歴代当主については資料によって何世か表記が違っている場合がありますので注意が必要です。
本因坊家の存続、および家元井上家の創設への道筋をつけるなど、囲碁界に大きな影響力を持っていた中村道碩の後継者はなかなか決まらず、安井算知が名人となるのは道碩が亡くなってから38年後の事です。
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