本因坊道知の墓(本妙寺) |
元禄15年(1702)碁聖と謳われた四世本因坊道策が臨終に際して後継者に指名したのが、当時13歳の五世本因坊道知でした。
道策には多くの門弟がいましたが、跡目の小川道的、再跡目の佐山策元が若くして亡くなり、その後は跡目を立てる事がなく、亡くなる直前に才能あふれる道知の将来性に期待して家督を継がせることとしたのです。なお、道知は道策の実子であるという説もあります。
道策は、かつての弟子で、跡目争いに絡み本因坊門を出て井上家を継承した井上道節因碩に道知の後見として育成を託しています。そして道節は井上家当主でありながら本因坊家に住み込み、道知を育て上げていったといいます。
余談ですが、忠臣蔵で有名な赤穂浪士が打ち入った本所松坂町吉良邸の正門は本因坊家の目の前にあり、 元禄15年3月26日(1702年4月22日)に道策が亡くなり、その数ヶ月後の元禄15年12月14日(1703年1月30日)に討ち入りが行われているため、道知や道節が、この事件を目撃していた可能性もあります。
道節のもとで実力をつけていった道知は、宝永3年(1706)7段に昇段し、これをもって道節の後見も解かれます。
道知は家元筆頭格である本因坊家の権威を高めるために尽力し、門下の高橋友碩らに命じ、火災により失われた先代までの事績を調査。『傅信録』としてまとめます。ただ、初代本因坊算砂が豊臣秀吉の開催した大会に優勝し朱印状を与えられたという話など、一部の内容は本因坊家の権威付けのために創作されたものではないかという説もあります。
本因坊道知は囲碁だけではなく、将棋も強かったと言われ、その実力は六段と言われていました。ある日将棋で七段の因理という人物に香落ちで勝った際に、その場にいた大橋宗桂、安井仙角らが「盤上の聖」と讃えたと伝えられています。
享保6年(1721)名人碁所に就任した道知は、翌年に井口知伯を跡目にすると、享保12年(1727)に亡くなり本妙寺へ葬られます。なお、先代道策と道知に関しては3代までが葬られている京都寂光寺にも墓が建立されています。
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