2021年1月30日土曜日

初代安井算哲

 

安井家歴代の墓(江東区浄心寺)

 囲碁家元四家の一つである安井家の初代、安井算哲の先祖は清和源氏の流れをくむ足利氏の一門、畠山氏の庶流で、河内国渋川郡を領有して渋川氏を名乗り、その後、播磨国の安井郷に移封されて安井氏と名乗るようになります。

 河内国久宝寺城(大阪府八尾市久宝寺)の城主であった安井定重、安井定正兄弟は織田信長に仕え「石山合戦」で石山本願寺と戦いますが、久宝寺城は落城し二人とも討死にしています。

 その安井定正の四男宗順の次男である六蔵が、後に初代本因坊算砂の弟子となった安井算哲なのです。なお、大阪の道頓堀を造った事で知られる安井道頓は算哲の叔父にあたるそうです。

 幼い頃より囲碁を得意としていた六蔵は、慶長5年(1600)11歳の時に、徳川家康に伏見城へ召し出され扶持を与えられたと言われ、その後、駿府にて家康の碁の相手を務めたり、本因坊算砂や利玄らとともに碁会に参加するなど活躍し、慶長13年(1608)に剃髪して名を算哲と改めています。

 慶長17年(1612)に江戸幕府は、有力な棋士に禄を与えていますが、算哲は師匠算砂や利玄らは別格として、算砂の弟子の中では中村道碩50石に次ぐ30石と高い評価を得ています。

 寛永3年(1626)安井算哲は二条城にて徳川秀忠の御前で中村道碩と対局していますが、これが一般的に最初の御城碁といわれています。

 算哲は慶安5年1月9日(1652年2月18日)に亡くなっていますが、弟子の算知を養子として家督を譲っています。当時、まだ幼かった長子の六蔵は二世安井算哲を襲名し、御城碁で活躍した後に、日本初の暦「大和暦」を完成させ、渋川春海を名乗り初代天文方へ就任しています。

 安井算哲は京都に葬られていますが、後に安井家の菩提寺は江戸の浄心寺へ移されています。


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