2021年1月31日日曜日

二世安井算知

 

安井家歴代の墓(江東区浄心寺)

墓石側面に刻まれた名

 家元安井家の二世安井算知は山城国出身で、本因坊算砂の弟子であった初代安井算哲の門弟でした。算哲になかなか嫡男が生まれなかったのか、あるいは幼少であったために師匠の養子となった算知は、慶安5年(1652)に算哲が亡くなると家督を継承し二代目当主となります。
 この時、算哲の長子である六蔵は13歳で、二世安井算哲を襲名し囲碁棋士として活躍した後、渋川春海と名乗り日本初の暦「大和暦」を完成。初代天文方へ就任しています。
 安井算知が当主となった時期、囲碁界を統括する立場の人物は、二世名人中村道碩が亡くなって以降、約20年間不在でした。
 算知は12歳で徳川家光に召し出され、会津藩主保科正之からは屋敷を与えられ扶持まで支給されていて、その政治的影響力を背景に、名人に就位して囲碁界を統括しようと画策します。
 しかし、これに本因坊算悦が反対し、九年に及ぶ六番碁が行われた結果、3勝3敗と決着がつかず碁所就任は見送られています。
 万治元年(1658)に本因坊算悦が亡くなった事と、その後、幕府では寺社奉行が碁将棋の管轄となり、碁打ち衆の代表者をはっきりさせる必要が生じた事で、寛文8年(1668)に算知は幕命により念願の三世名人に就位し、合わせて囲碁界を統括する権限(碁所)を与えられます。
 しかし、算悦の跡を継いだ三世本因坊道悦が、これを不服とし遠島覚悟で争碁を申し込んだため六十番碁が開始される事となります。結果は延宝3年(1675)に二十番が終わった時点で道悦が優位のまま打ち止め。この時すでに58歳であった算知は碁所を返上し隠居しています。
 一方で騒動の責任をとる形で道悦も2年後に隠居し本因坊道策が家督を継承。これにより碁聖と称される道策の時代が始まります。
 なお、算知・道悦の争碁は、結果こそ道悦の勝利でしたが、当時の二人の年齢を考えると算知に一日の長があったと言われ、これに対し道悦は成長著しい道策と対策を練ることで勝つことが出来たと言われています。
 算知の跡を継いだ三世安井知哲は、先代算哲の子、あるいは算知の実子であると諸説ありますが、算知は隠居後も元禄9年(1696)まで御城碁に立会人として出仕するなど影響力を保ち続け、その後、京都で暮らし元禄16年(1703)に87歳で亡くなっています。
 なお、安井算知は、後に九世も名乗っているため、区別するため二世安井算知は「名人算知」とも呼ばれています。

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