本因坊算悦の墓(寂光寺) |
初代本因坊算砂は臨終の際、僅か13歳の本因坊算悦を後継者に指名しますが、当時は家元制度が確立する前で、幕府からの扶持は個人に対して支給されていたため、幼年であった算悦は無禄となります。
算砂の遺命により弟子の二世名人・中村道碩が後見となって算悦の成長を待った結果、嘉永7年(1630)20歳の時に上手(七段)が認められ、正式に二世本因坊として30石を賜ります。
算悦は、正保2年(1646)より安井算知と道碩亡き後の碁所の地位をめぐって争碁を行なっていますが、これが初の争碁と言われています。
ある日、御城碁において算悦が安井算知と対局していたところ、観戦していた将軍家光の弟で幕府の重鎮である保科正之が、何気なしに「本因坊の方が分が悪い」とつぶやいたため、算悦は「自分が碁に向かうのは武士が戦場に臨むのと同じ事だ」と激昂し帰ろうとしたそうです。慌てた保科正之が算悦に謝罪して対局は続けられましたが、この出来事は、碁家の気概を示すものとして賞賛され、後の世に語り継がれています。
算悦は万治元年9月16日(1658年10月12日)に亡くなり京都の寂光寺に葬られています。
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