2021年1月27日水曜日

四世本因坊道策

本因坊道策の墓(本妙寺)

 江戸時代に碁聖と讃えられた四世本因坊道策は、正保2年1645)に石見国馬路(現・島根県大田市仁摩町馬路)の山崎家で生まれます。
 山崎家は毛利元就配下で家老を務めた松浦但馬守を祖とし、江戸時代に入り大久保長安に仕えて石見銀山開発に関わり財を成しています。 
 道策は熊本藩3代藩主・細川綱利の乳母であった母に7歳の頃より囲碁を教わり、14歳で本因坊家の門下となります。
 なお山崎家は、他に道策の弟である三世井上道砂因碩、後の時代に十世井上因砂因碩を輩出している名門です。
 道策が師事した本因坊道悦は、寛文8年(1668)に安井算知が名人として囲碁界を統括することに異を唱え争碁を開始。算知を名人位返上へと追い込んでいますが、それは成長著しい道策との共同研究により達成できたとも言われています。
 騒動の責任を取る形で道悦は二年後に家督を道策に譲り、実力が際立っていた道策は、家督継承と共に碁所へと推挙されますが、他家からも異論が出ることがなかったそうです。圧倒的強さを誇った道策は、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称されたそうで、現在でも史上最強の棋士に名を上げる人が多くいます。
 道策は、手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出し、従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれ、碁聖として讃えられています。
 段位制を確立したのも道策であり、名人を九段、名人上手間を八段・準名人、上手を七段とし、以下二段差を1子とする制度は、大正13年(1924)に日本棋院が設立されるまで使われていました。
 道策は五虎(五弟子)と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節(井上道節因碩)、熊谷本碩、星合八碩の他、優秀な弟子を多く育成しています。特に小川道的に期待をかけ跡目としますが、道的はわずか21歳で夭逝。続いて再跡目とした佐山策元も25歳で亡くなったため、その後は跡目を立てることはありませんでした。
 元禄15年3月26日(1702年4月22日)に道策は亡くなりますが、臨終において13歳の神谷道知を後継者に指名。弟子の井上道節因碩を後見として道知の育成を託しています。
 なお、本因坊家当主は先代まで京都の寂光寺へ葬られていましたが、道策は遺言により江戸の本妙寺の塔頭、感應院へ葬られ、以降、感應院が本因坊家の菩提寺となっています。



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